アトピー生活

アトピー性皮膚炎とのなが〜い付き合い

婆ちゃんと祈り

両親と兄と、父方の祖母と一緒に暮らしていた。祖父は私が産まれるだいぶ前に亡くなっている。


共働きの両親に代わって、祖母が私と兄の面倒を見てくれた。看護師の母親が準夜勤の時は晩御飯も作っていたし、年二回、彼岸のこし餡おはぎは本当に美味しかった。「人を傷つけるようなことは決してしちゃいけない」というような、道徳的なことをよく言っていた。どちらかというと、思ったことを溜め込みがちな性格であったと思う。


祖母は朝夕まんまんさま (仏壇) にご飯やお茶をお供えして、日蓮宗のお経をあげていた。台所には神棚もあって、こちらにも朝夕手を合わせていた。信心深いというより、大正生まれとしては当たり前のことなんだろう。祖母は朝夕のお祈りの最後に必ず、孫のアトピーが良くなりますように…とつけ加えていた。そして「婆ちゃんがちゃんとお願いしよるけんね」と言った。

私も少なくとも小学生の間はずっと、寝る前には必ずまんまんさまに手を合わせ、「今日もみんな無事に過ごせてありがとうございます。明日も宜しくお願いします。アトピーが良くなりますように」などと拝んでいた。毎日が寺参拝状態である。


ある日、アトピーの状態が酷くてボリボリ一心不乱に掻いていたら、祖母が哀れんだ眼で、「よっぽど前世の業が深いんやろうねえ」と言った。
前世の業。つまり前世で悪いことをした報いとしていまこんな目にあっている、というのである。そういう考えが大昔から、ある種一般的に存在するのは知っていたが、それにしても病気で苦しむ人に物凄いセリフだな、と思った。


田舎にいる母方の祖母も、集落の神社で私の快癒を祈ってくれていた。ちなみにこっちの祖父は私が幼稚園の年長くらいまで存命だった。酔っぱらって「良く来たのー」とにこにこしている顔と、病院のベッドで眠っている顔だけが記憶にある。よく酒を飲む人で、肝臓ガンで亡くなった。


母の田舎は天草諸島を臨む山の斜面にあって、周りは畑や田んぼが広がっている。
家からすぐの山道に入って10分くらい、木造や石造りの鳥居がポツポツと並んだ奥に、木に囲まれたごく狭い平地がある。そこに古びた木造 (いまはプレハブ) の小さな社があった。畳四畳分くらいだったか。宮司などはおらず、集落の人々に管理されている。名前を影清神社といい、藤原影清が祀られている。


檀ノ浦の戦いで両目を失いながらも逃げ延びた(もしくは逃亡中に失明した?)影清がこの山中に潜伏し、盲目の不便を知ったことから聖人化。村人に親切に接して皆から敬われた、という縁起らしい(母談)。
景清の伝説やゆかりの地は全国各地にあって、一般によく言われるのは後年眼病にかかって失明したとか、「源氏の世なんて見たくない」と自分で目をくり抜いたという話。ざらっと調べた限りでは、この聖人伝説はちょっと珍しい(一般の伝説から大きく逸れたような)話なのかなと思う。

母も含めその集落の現住人は、江戸初期の一揆弾圧で農民が死に絶えたところに、兵庫県の小豆島あたりから入植してきた人達の末裔なんだそうだ。景清神社は元住んでいた人たちが祀っていたのか、それとも実は移住の時に持ってきたのか。時代を経る中で言い伝えが変化した可能性も考えられる。宮崎県に景清を祀る生目神社というのがあって、もしかしたらここから分社されたものなのかもしれない。


ともかくとして、この影清神社は全国にある他の影清神社と同様、眼病にご利益があると言われている。紙に年齢の数だけ『目』と書いてお参りし、社内の壁に貼っていく。古い木造の壁に、習字で「目目目目目目目目目目…」「めめめめめめめめめめ…」と書かれた半紙がたくさん張り付けてあるのは、なかなか圧倒されるものがあった。集落自体なかなかの山中にあるのだけども、ご利益を頼りに全国からお参りに来る人がいるらしい。中には7つ、8つの「め」もあった。
集落の人たちは眼病にかかわらず厚い信仰を寄せて(というか当然のようにお参りして)いて、母方の祖母なんか80歳を過ぎても毎日のように通っていたそうだ。景清様に日々の平穏を祈り、私のアトピーが治るよう手を合わせてくれた。「災難は水の難、水に流して下され」。長いお祈りの言葉があったのだが、唯一ここだけ覚えている。


アトピーの話とは離れてしまったけれど、この"祈る"という行為、清廉で良いものだなあと思う。年をとるにつれてまんまんさまも拝まなくなってしまったが、それでも寺社仏閣で手を合わせる時は常に真剣だ。その真剣さがあの澄んだ空気を作るのかもしれない。


何せ良かったのは、家族が私のアトピーを原因にお金のかかる神様に祈らなかったこと。まあ、民間療法もある種の信仰と言えなくはないが。