アトピー生活

アトピー性皮膚炎とのなが〜い付き合い

荒くれ先生

中1の時のクラスの担任は、父親くらいの年の体育教師だったのだけど、馬乗りになって生徒をぶん殴るような荒くれ先生だった。


「くらわすっぞ」(げんこつを食らわせるぞ的な意味)が口癖で、実際に体育の時間に "態度が悪い"という理由で男子生徒をグラウンドに押し倒し、馬乗りになってグーで顔や腹を何度も殴りつけるということがあった。
その時女子は保健体育か何かで教室で授業を受けていて、クラスメイトの男子が「なめとっとか、あぁ!?オラァ!!」と怒鳴られながらボコボコにされる様を窓から目撃。私含めみんなドン引きしていた。飛んできた数学教師 ( 副担任 ) に諌められてもしばらく馬乗りのまま怒声を発していて、殴られた生徒は血反吐を吐いていた(らしい)。

今だったらとんでもないことになるだろうけど、当時は今ほどにはそういうことに関して厳しくない風潮だった。「くらわすっぞ」はこの先生に限らず男性教員(主に体育教師)から良く聞かれた言葉だったし、ビンタ張り手のたぐいはしばしば目にした。さすがにグーでぶん殴るのはその時くらいしか見ていないが。
その場に居合わせた生徒曰く、止めに来た副担任は「回りの目があるから止めて下さい!」としきりに体裁を気にしていたらしく、それも酷いなと思った。
殴られた男の子は、体育が終わって教室に戻るや女子たちに「大丈夫!?」と取り囲まれて、腫らした口元を腕で拭うように隠しながら「あいつのパンチなんか大したことない」と強がっていて、今思うとかわいい。結局そのあと、「 (殴られた) 腹が痛い」と言いながらもその子は普通に1日授業を受けて、特に問題になることもなくその件は済んだ。


二学期の終わりに高知の土佐清水病院に入院した私は、見違えるようにアトピーが綺麗になって三学期を迎えた。学校に行ったら、「冬休み前に学校を一週間も休んでどこ行ってたの?」とクラスメイトの何人かに聞かれた。入院は仲の良い友達にしか伝えていなくて、どうせ担任が休んでる理由を言ってるだろうと思っていたのだが、荒くれ先生は私が休んでいる理由を何度聞かれても濁して教えなかったらしい。


小学校の時、クラスに首もとから肩口にかけて大きなアザのある女の子がいて、ある日その子が学校を休んだ。朝のホームルームで先生が神妙な顔で「○○さんは肩のアザをとても気にしていて、アザを取る手術を受けるために休みます。別に体に悪いものでも伝染るものでもないけれど、本人はとても気にしていて、そういう気持ちを理解してあげましょうね」的なことを言った。
その説明いるか?と思った。気にしているなら余計、そんなことわざわざ伝えられたく無いんじゃないだろうか。子供ってむしろ大人が感じないような微細な感情に配慮するところがあって、見えやすい場所のアザでも無かったし、たかだか二日程度の休み明けにその子の襟元から覗く肌にアザが無かったとして、それを露骨に追及しただろうか? ちなみにそのクラスにおいて、その子がアザについていじられたり、嫌なことを言われたりするような状況は無かったと思う。
もちろん、本人が後で聞かれるのを嫌がったとか、先生も「万が一にも心ない言葉があってはいけない」と思ったのかもしれない。のだけれど、子供の頃、そういう大人の "子供の事情をなんでもはっきり皆に提示してしまう行動"について、生意気にも「デリカシーないなあ」と思うことがしばしばあった。


そんなこともあって、まさか荒くれ先生が私の入院を伝えるのを控えていたとは驚いた。馬乗りぶん殴り事件以来、この担任について否定的な気持ちが強かったから尚更だ。正直、「いちいち答えるのめんどくせえな。言ってもらって良かったのに」と思った。けれど、「もしかしたらこの子はみんなに伝えられるのが嫌かもしれない」という意識を持ってくれた(んだろう)ことはとても嬉しいことだったし、"ペッタリ張り付けたような教師 " じゃない心のひだを感じて、少し透明な気持ちがした。もちろん暴力は肯定しないけれども。


ちなみに。数年後、高校に入学して同じクラスになった子に声をかけられ、「うちのお父さんから中学で担任したって聞いたよ」と言われて初めて気づいた荒くれ先生の娘さんは、おっとりとした感じの、大変柔らかくて優しい女の子だった。

ブログランキング参加してます。
↓是非クリックお願いします(_ _)
ブログランキング・にほんブログ村へ

教室の窓から覗く巨大な顔

小学校6年生の時、担任のH先生の授業中に突然外が真っ暗になった。

午後の授業で、14時〜15時くらいだったと思う。授業を受けていたら急に蛍光灯の明かりを強く感じて、辺りを見回すと窓の外が夜みたいに真っ暗だった。先生と40人ばかりのクラスメイトがみんな、なんだなんだと騒ぎ出した。

 

4階にある教室の南側に面した窓の外にはついさっきまで、空とグラウンドと坂下の家々が見えた。そういうものが全く、夜の闇に呑まれたように何も見えず、明かり一つない。「何これー!?」とみんな大騒ぎになり、窓際の生徒は貼りつくようにして外を見ていた。他の生徒も立ち上がって外を見て、廊下寄りの席だった私も背伸びして外を眺めた。ここで偉いのは、みんな立ち上がりこそすれ基本自分の席を離れない、という行儀の良さ。学級崩壊?何それという感じだ。

 

先生は頭の上いっぱいにはてなマークを浮かべたような顔をして窓から外を見て、そして廊下に出て行った。当然、廊下の外は?他の教室の窓外は?という疑問が湧く。元気の良い、リーダー格の男子1人が後を追って廊下に出て行った。先生は数分で戻ってきて、教室外の様子を知りたがる子供達に答えないまま、ひたすらはてなマークを浮かべていた。男子生徒も先生について戻ってきて、質問攻めのクラスメイトの声も耳に入らないかのように首を捻るばかり。

 

にわかに教室が明るくなった。窓の外は元どおりの青空で、グラウンドも、その先の家々もいつも通り。残念ながら私はその変化の瞬間外を見ていなかった。明るい教室の中で蛍光灯が鈍く光っていた。みんなが「戻ったー!」とワアワア騒いでいる中で、H先生と教卓の前の席にいたY君二人だけが未だ呆然としている。そして二人は顔を見合わせて、「見た?」「見た」。何何!?と興味津々な生徒たちに先生は、「…大きな女の顔が覗いてた」と教室前方の窓上部を指さした。「ねえ?」と先生にふられたY君は、頷きながら「女の顔だった」。教室は水を打ったように静まり返った。けれどすぐに、何それ!? 怖っ、わけわかんないなどの声が上がる。私は怖いというより、不思議でワクワクする気持ちの方が大きかった。

 

それにしても、あのどう考えても不思議極まりない状況でなぜもっと動かなかったのか。行儀よくしてる場合じゃない。窓に近づいて外に手を出してみるとか、廊下に出て他の窓を見るとか。さすがにグラウンドに出る勇気までは無いにしても…。先生もその後5分くらいで気持ちを立て直して、騒ぐ生徒たちを静まらせて授業を再開した。なんの授業だったかは忘れたが、今思うと授業なんか続けてる場合じゃない。

授業時間が終わって、みんなさっきの不思議をワイワイ話し合った。確か他のクラスの友達に、そっちはどうだったかと聞いたと思うのだけれど、残念なことにその結果は覚えていない。廊下を見に行った男子生徒にも質問した気がするが、その答えもさっぱり思い出せない。結局みんな、不思議なこともあるもんだなーくらいのテンションで終わった。さすがにY君だけは帰るまでずっと沈んだ様子だったけれど。

 

家に帰って母親と兄に話したところ、非現実的なことに興味のない母は「ふーん」と気のない返事で、私の小学校の横、車道を挟んですぐ隣の中学に通う兄は、「外が真っ暗になるなんて無かった」と言っていた。いま検索しても皆既日食の情報もないし、少なくともそこら一帯が真っ暗になったわけじゃないようだった。本当に不思議極まりない出来事だったけれど、その出来事に対して、「不思議ー!」で終わらせていた自分が何より不思議だ。

 

そしてさらに、私は二十代半ばになって『女優霊』という映画を観るまで、そんなことがあったことすらすっかり忘れていた。

『女優霊』は高橋洋脚本、中田秀夫監督のホラー映画。その冒頭、クレジットバックの映像で、古い日本家屋の中に何か物語を感じさせる様子で人形が佇んでいるのだが、その窓からひょっと大きな人の顔が覗く。実はこの家と人形は映画撮影の打ち合わせの為の模型で、覗いた顔はその映画の監督(柳ユーレイ)というシーン。DVDで観ていて柳ユーレイの顔が窓から覗いた瞬間、「あ」と思い出した。思い出してみると、よく今まで忘れてたもんだと驚いた。

 

実は私たちの見ている世界はVRだとか、脳みそだけがダーッと並んでいる空間が現実で、その脳がコネクトしながら見せている仮の世界を我々は見ているんだとか、昔からいろいろと言われているけども…。実際私たちはシャーレに培養された菌みたいなもので、培養者が顔を覗かせることがあるのかもしれない、なんて思ったりする。しかし、シャーレの菌であろうとなんだろうと、私はいまこの穏やかな日常を慈しんでいる。思い出しながらこうして書いてるうちに怖くなってきた。あの時、自分の席から動かなかったのは正解だったかもしれない。もしかして防衛本能が働いたのかもしれない。

 

誰かが言ってた。オカルト的なものに対する大衆のヒステリックな反発はどこから来るのか?まるで何かに触れるのを無意識に恐れているような。そもそもオカルティックな物自体が、まるで何かの意思で隠されているようなー云々。森達也の『スプーン』だったかもしれない。もしいま目の前に白ウサギが現れても、私は決して後を追わないだろう。

ブログのテーマからそれましたが、一体あれは何だったんだろーか、でした。 

 

面白いです。最後に幽霊がド派手に出てくるのは残念だったけれど。脚本では違って、もっと厳かに怖かった。

  

退院 土佐清水⑩

アトピー治療のために土佐清水病院に入院して一週間後、付き添いの母親が仕事に戻るため先に帰って行った。今まで母と二人だった民宿の部屋に、高校生と中学生の女子2人が来た。人見知りな方だったから初めは戸惑ったけれど、いざそうなればすぐに慣れた。夜の治療時間以外部屋でゴロゴロする生活に変わりはなく、変化といえば、民宿の食堂にレディコミがやたらあって、母の前では読めなかったどぎつい漫画を読む時間が増えたこと。そして私が来て一週間経つ間に、初め民宿にいた人たちは次々退院して顔ぶれはだいぶ変わっていた。

 

私の皮膚の状態はかなり良くなっていた。ジュクジュクした炎症は入院早期になくなり、硬く厚かった皮膚もこの頃には柔らかくなって、ブツブツも大概消えた。手のひらに深く刻まれたシワ(手相占いに困るくらい微細なシワだらけ)や、膝の迷路ができそうなくらいはっきりしたシワは薄くはなれど消えなかった。そして体幹の色素沈着 ( 黒ずみ) もさすがに一週間ちょっとでは無理。それでも顔や首、手足の黒ずみはほとんど綺麗になった。

それに伴い、病院で塗る軟膏もステロイドの含有量減。ステロイドの入った透明なVa(2)軟膏から、ステロイド量が少なかったり全く入っていない、色素沈着をとる効果があるという茶色いAOA(4)、AOA(0)軟膏にチェンジ。にもかかわらず、何でか自分的にはそんなに変わった気がしないでいた。当時土佐清水で出歩いた先や民宿で撮った写真を見ても明らかに綺麗になっているのだけれど、アトピーが酷い状況があまりに当たり前になり過ぎていたからか、一週間ちょっとでのその変化に気持ちが追いつかないでいた。

 

母が帰ってすぐ、治療の具合をみる一斉診察があった。男女別れて上半身裸になってずらっと並び、次から次に先生が皮膚の状態をみて治療の継続か退院かを決めていく。その日、女性の担当は丹羽医院長で、分厚い眼鏡越しに私の体や腕の関節をみて、2〜3日後に退院してよしと告げた。肌の状態が良くなっていたにも関わらず自分のアトピーが良くなることを信じきれないでいた私は、思わず「もういいの!?」と素っ頓狂な声を上げた。「んン?」と眉根を寄せた丹羽医師は、「ほんならもう少しいるか?」。思わずウンと頷いてしまって、結局総日数10日くらいで退院のところを、14日いることになった。

診察室を出てから、「でもここ保険が効かないんだった…」と猛烈に不安になり、両親に相談すべきだったと後悔。診察室に戻って「やっぱり早めに帰ります」と言えないかどうか右往左往して、結局諦めた。後で分かったことには、そこはやはり病院もちゃんとしていて、診察の後、親に確認の連絡がいったらしい。家に帰ってから、「子供さんがまだ居たいって言うんですけど」という電話が来たと爆笑された。それでも念のためと思ったのか、両親は長居を了承してくれたらしい。

 

そうして退院の日、父親が夜行バスで10時間かけて高知まで来て、さらに電車とバスを乗り継いで3時間。長い長い時間をかけて民宿まで迎えに来てくれた。父は基本飛行機に乗らない。高くてもったいないのと同時に、堕ちるのが怖いらしい。

女将さんが父が来たことを部屋に伝えに来て、やはりどう見てもアトピーは良くなっているし、お父さんはどんな顔をするかな?と楽しみに出て行った。が、私の顔を見て「おう」と言ったきり、期待したような言葉は聞かれなかった。

父が民宿で宿泊代、病院で診察台を払って家路についた。ちなみに、両方合わせて「確か80万くらいした」らしい。民宿は一泊二食付きで4000〜4500円くらいだったそうで、母と合わせて宿泊費10万弱として、やはり健康保険適応外は相当なものだ。今になってその金額の大きさが実感を伴って分かる。

アイセイ・・・「人間なんて人情盗坊 二親に捧げられし愛を 一体どうやって返そうか?返そうか?」 後年、エレカシの『地元の朝』のサビを聞いてわぁっとなった。人情どころか、かけさせた金すら未だに返せていない始末である。

 

佐清水からの帰りは、私も一緒ということで飛行機だった。久しぶりに家に帰ると、母、兄、祖母が出迎えてくれた。兄から「まさかこんなに良くなってるとは思わなかった」とようやく嬉しい言葉をもらえて、祖母も良かったねと喜んでくれた。父と母も喜んではいたようだったけれど、いつぶり返すかとの懸念もあったようで、慎重に経過観察しなければという感じ。

 

帰ってからも軟膏塗布はもちろん、アトピーを悪化させないための禁肉・禁油もの生活は当然継続。兄もそれに巻き込まれて、高校生という最高に肉や揚げ物が食べたい時期に家では魚と大豆がメイン料理。兄は外で友達と肉や揚げ物を食べていたようだったけど、高校生のことだからそう頻繁に飲食店に行くわけでもなく、だいぶフラストレーションが溜まっていた。母は母で、ただでさえ迷う夕食のメニューがさらに限られ、晩ご飯どがんしよう( ;´Д`)という苦しみに苛まれていた。覚えている常連メニューは、煮魚、焼き魚、刺身、湯豆腐、豆腐ハンバーグ、野菜をいろいろ炒めたもの、野菜をいろいろ煮た物、肉なし肉じゃが、肉なしカレーなど。兄は珍しく幼い時から湯豆腐という侘びた食べ物が大好きで、湯豆腐の頻出には喜んでいた。

私はというと、ご飯のおかずよりもチョコレートやスナック菓子が食べられないことの方が辛かった。それでも退院して数年は特に、元に戻るのが恐ろしくて隠れて食べるようなこともしなかった。

子供の時よりもむしろ年齢を重ねてから、辛抱できないことが増えたような気がする。

 

 ブログランキング参加してます。
↓是非クリックお願いします(_ _)

ブログランキング・にほんブログ村へ

講演 土佐清水⑨

佐清水病院にかかるアトピー患者は全員、院長の講演会を聞かなければいけない。入院患者だけじゃなく、全国の診療所で診察を受けて薬をもらう人は漏れなく。講演会は土佐清水はもちろん、全国各地で開かれていた。
私が入院した当時、入院患者は入院期間中に必ず講演を聞くようスケジューリングされていたから、土佐清水病院本部では月に数回は行われていたんだと思う。


入院して数日後、病院にある広い講議室みたいなところで講演会が開かれた。部屋いっぱいの患者さんが、絨毯張りの床に座って話を聞いた。
丹羽医院長を見たのはその時が初めて。当時いくつくらいだったんだろうか、子供の時はとにかく大人の年齢の判別ができない。お爺さん、というには失礼な年だったように思う。プロフィールに昭和37年京都大学医学部卒とあるから、60前後だったのかも。
シャキッとした印象の人で、なかなか口が悪かった。私の病院はアトピー患者の掃き溜めだ ( 吹き溜まりだったかな ) 、みたいなことを言ってたのしか具体的には覚えていないけど、軽妙なアトピーいじり(?)で楽しい講演だった印象がある。実績があるしアトピー治療の第一人者だから当然悪意は感じなくて、その口の悪さに逆に好感が持てた。他の患者さんたちも良く笑っていたから、みんな同じような印象だったのかもしれない。


講演で覚えているのは、

  • アトピーを悪化させる原因は活性酸素で、大気汚染が酷くなった高度経済成長頃から大人になっても治らないアトピー患者が増えた。車の排ガスも活性酸素を作り出すから、都市部に住むと重症化しやすい。
  • 紫外線も活性酸素を発生させるので、日に焼けてはいけない。
  • その活性酸素と脂が結びついてできる過酸化脂質が皮膚の保湿機能を低下させる。故に脂物を摂らないようにしなければいけない。肉、揚げ物、ラーメン、スナック菓子など厳禁。
  • チョコレート、コーヒー、ココア、もち (もち米)は、かゆみを引き起こすヒスタミン類似物質を含んでいるから、これまた食べてはいけない。
  • ストレスと寝不足も悪化の原因になる。


というようなことだった。もう20年以上前になるから、記憶違いや更新された情報があるかもしれない。三時間くらいのスピーチで色々細かい内容があったんだろうけど、とにかくしてはいけない事だけ覚えている。
あとは病院で使う軟膏の原材料が、大豆、糠、ハトムギなど天然の原料でできているという事。これを聞いた同じ民宿の患者さんが後で、「天然の原料がメインで何でこんなに高いんやろ」と首を捻っていた。軟膏は50gで2000〜3000円。確かに何でだ? と思ったままにしていたが、最近になってようやく丹羽さんの本を読んだら、遠赤外線、麹発酵、油剤化など薬の製造設備や工程にお金がかかっているのかな?
そしてもう一つ、土佐清水病院の診療・軟膏には健康保険がきかず、これまた何でだ?と思ったままにしていたのだけど、天然成分は保険対象外で、保険適用になる化学薬品の含有量が少なく、結局値段がほとんど下がらないから保険申請していないらしい。しかし、もう相当な入院・通院患者がいて治療の実績もあるんだから、土佐清水病院の診察、軟膏自体に保険を適用してくれても良いんじゃなかろうか。


講演を聞いて、入院するまで頭皮の乾燥に馬油をシャカシャカ擦り込んでいたのだけれど、それも動物性脂質だから良くないことが判明。あとは日焼け。母親が、私が人前で肌をさらすのをいくら嫌がっても鬼のように学校のプールに入れさせていて、その話を聞いた後、どや顔で母に「やっぱりプールはダメじゃないか!」と勝ち誇って言った。


ちなみに、全国での講演会は確か数年に1度くらいの頻度で行われていて、退院した後も最寄りの開催地で開かれる講演を定期的に聞かないと軟膏を処方してもらえなかった。アトピー寛解はするけど全治するものじゃなく本人の生活習慣が大いに影響するから、定期的に情報をインプットする必要がある、という趣旨。
どういうわけだったか、私は中学生で入院した時に聞いて次は23か4になってようやく横浜で講演を聞いた。中高の時は免除されていたのか、確か大学に入ってから何回か催促を受けては行き逃し、いい加減聞きにこないと薬を処方できませんよと言われてようやく重い腰を上げたんだと思う。が、それでも1時間以上遅刻して入る始末。喉元過ぎれば熱さを忘れるとは良く言ったもので、多少状態の波はあってもとにかく軟膏をつけていれば何とかなったから、アトピーについてだいぶいい加減な気持ちになっていた。その後、丹羽医院長も高齢の為か講演会は休止のまま。
そして私は、今になってようやくアトピーの仕組みや軟膏の成分・作用なんかが気になって、実家の本棚に眠っていた丹羽医院長の本を引っ張り出して読んだりしている。



丹羽博士の正しい「アトピー」の知識


ブログランキング参加してます。
↓是非クリックお願いします(_ _)
ブログランキング・にほんブログ村へ

日々 土佐清水⑧

アトピー性皮膚炎治療の為の、土佐清水病院での入院 ( 民宿からの通院 ) 生活にはすぐに慣れた。
治療は基本毎晩病院に通い、サンドバスという特殊な石粒に埋まって肌を柔らかくする風呂 (?) に入ったあと、軟膏を全身に塗って包帯でぐるぐる巻きにされるのの繰り返し。たまに昼間(だったと思う)に病院に行って、茶色い液体の入ったぶっとい注射を肩に打たれることも。これがどんな薬品でなんの効果があったのかは全く覚えていない。打たれるとすぐ強烈な鈍痛がして、看護師さんに言われた通りに良く揉むと痛みがやわらいだ。
私と同じ中学生くらいの男の子がお母さんと一緒に来ていて、注射を打たれたあと泣きそうな顔をしていた。お母さんが「かわいそうに」と言って揉んであげていて、それを見た私の母が柄にもなく「揉んであげようか?」と言って来たが、「自分で揉める」と断った。


朝のシャワー後、軟膏を塗らなくても乾燥しないことが分かったから、お湯を貯めて湯船に浸かるようにした。
昼間は自分の服や外した包帯、ガーゼ、白手袋を洗濯する(たしか手袋や包帯は洗って次の処置に持っていった)以外やることがないから、おおむね部屋でゴロゴロ。今ごろクラスの子たちは学校かと思いながらコタツでうとうとするのは至福だった。母はだいたい小説を読んでいて、「こがん何もせんで良かっちゃろか」と罪悪感すら感じていた。


朝晩は民宿で食事が出るけども、お昼は自分での調達だったから、近所のスーパーで惣菜を買って来たり、散歩がてら外に食べに行ったりした。
肉が食べられないアトピー患者のために、シーチキンカレーや大豆でできた肉 ( 風のもの ) の生姜焼きや時雨煮を出す喫茶店がある一方、店の表に『土佐清水病院患者の入店お断り』とバーンと貼ってあるレストランも。治療で塗るグリテールパスターという軟膏が強烈な臭いを放つから、きっと他のお客さんから苦情が入ったんだと思う。
意気揚々と店を探していて初めてその張り紙に出会った時は、すっかり萎縮してしまった。しかし、のんきに「ここにしよう」と言う母。「ダメって書いてあるよ!」と言うと、「あの臭いが問題なんでしょ。あんた朝シャワー浴びとるけん大丈夫よ」と悠々と中へ入っていった。慌てて後を追ってコソコソ席についたが、店の人の対応は普通だった。


病院での処置の時間は民宿ごとにローテーションで決まっていて、ちょうど私が泊まった時、宿泊先の民宿は夜7時からの番だった。おかげで薬をつけたら寝るだけで、昼間は薬を落とした状態で出歩けたから良かったが、当然、朝・昼からの処置でグリテールを塗られる人もいるわけである。グリテールは "大豆の乾溜エキス" だとかで、この臭いを形容する言葉は見つけられないが、例えば広いスーパーで「グリテールの香りがする!」と思って見回すと、20mくらい離れた惣菜売り場で包帯を巻いた人がおかずを選んでいたりする。それぐらいの威力があった。
しばしばスーパーで、患者さんの横を顔をしかめて通り過ぎる人を見た。あからさまに「くっせぇ」と言う人も。飲食店はまあ分かるけれども、臭いの元が分かっていて危険はないのだからそこまで…とハラハラしたが、それでも言われている当事者は動じずに買い物を済ませていた。
もし入院が翌月にずれていたら私も朝イチからの処置で、匂いはもちろん全身包帯ぐるぐる巻きの為、動きづらくて散歩もしづらかっただろう。正直、夜の回に当たって良かったと思った。


たまに街をぶらぶら散歩して、バスで30分くらいの足釣り岬というところにも行った。見事な断崖絶壁と奇岩のある岬で、崖から海を見下ろしたら足がすくんだ。母は風でも吹いたら落ちるんじゃないかと恐怖して、離れたところから「早よ戻ってこい!」と叫んでいた。自殺の名所と言われているらしく、確かに確実に死ねそうだったが、飛び込む気合は半端なく必要だと思う。


佐清水の港の方に散歩したとき、はじめに診察してくれた先生が遠い目で海を見ているのに遭遇した。呆然と立ちつくしたような風情に声をかけて良いものかどうか迷った。この先生が病院内で点滴を打ちながら ( 点滴スタンドをガラガラ持って ) 働き回っているのをしばしば見かけていて、患者さんも大変な人数だし、自分ののどかさに反して、よっぽど忙しいんだろうと少し心配になった。あの先生は今どうしているだろうか。

患者さんたち 土佐清水⑦

病院・民宿ともにアトピー性皮膚炎の患者ばかりだったから、気持ち的に非常に楽だった。いつもは人目を気にして、どこかで回りからの攻撃に怯えていたところがあったけど、ここは症状に差こそあれ皆アトピーだから、のびやかな気持ちで過ごせた。


同じ民宿の患者さんと話をする機会がしばしばあった。
ある20代の女性は、高校生くらいの時に症状が悪化して母親からも疎まれるようになったらしい。卒業後家を出て彼氏さんと暮らしていたが、アトピーがますます悪化して引きこもるように。「どうせ治らない」と部屋の隅で布団に隠れて過ごす彼女を、彼氏さんは絶えず励まし、彼女から落ちる皮を箒で掃き集めて掃除し、そしてこの土佐清水病院を見つけて来た。初めは「どこに行こうが一緒」とはねつけていた彼女だったが、彼氏さんの献身を受けて、とにかく行くだけ行ってみようと決めたそうだ。
その人は来てどのくらいだったか、アトピー特有のゴワゴワした厚ぼったい皮膚の名残はあるものの、さほど酷くは見えなかった。入院してかなり症状が改善されたと言っていた。「彼に本当に感謝してる」と話していて、ほんとに全く、私はその話を聞いてそんな人が存在するのかと深く感銘を受けた。血縁もない他人でありながら、皮が落ちるのを責めるでなく掃き集めるだなんて! そしてまた彼女の母親の話を聞いて、真剣に私のアトピーに対処してくれている自分の親が、実はありがたいものなんだと知った。


兵庫から来たという20代初めくらいの女性は、一見アトピーだとは分からなかった。手足の間接を見せてくれて、白く色が抜けたようになってテカテカしていた。もともと首や間接だけに症状が出て、ステロイドで良くなったものの痕が気になり、「もうちょっとどうにかならんものか」と土佐清水病院の新大阪診療所で診察を受けたらしい。入院は必要ないと言われたそうだが、「どうしても行きたいんです!」とゴリ押して来たそうだ。
遠赤外線を放射するという特殊な石粒に埋まるサンドバス治療が「最高に肌がしっとりする」と気に入っていて、「あの石粒、なんとかこっそり持って帰れへんかなあ」と関西人らしい(偏見?)ことを言っていた。毎日少しずつ局部に隠して持ち出せないか…なんてことも言っていて(※冗談で、です)、「歩いたらポロポロ落ちるでしょ」とツッコミを受け、脱衣所でパンツを履くまでのこぼれない歩き方を模索していた。子供だった私には大変刺激的な会話だった。


高校生だという金髪ロングパーマの無愛想な女の子がいて、同室の人が「部屋でポテトチップスやカップラーメンを食べる」と怒っていた。スナック菓子もラーメンも、アトピー悪化の原因になるため食べるのを禁止されている。その高校生は入院してしばらく経つらしく、見た目アトピーとは分からず、良くなって気が緩んだのか、我慢の限界が来たのか。気持ちは分かるなあと思ったが、目の前でご禁制の品をバクバク食べられる方も堪らなかっただろう。同室の人は「女将さんに言って部屋を変えてもらう」と怒り心頭に発していた。その後割とすぐ、女子高生は退院になって家に帰っていった。


当時、それまでそんな風にアトピーの人と話すことが無かったから、その点においても良い経験だった。私の母も病院で、娘さんの付き添いで来たお母さんと情報交換などしていた。当事者もそうだが、アトピーの子供を持った親同士も、実感をともなった話し相手がいるのは有り難かったのではないだろうか。


思い出してみると、病院で見た患者さんは男性よりも女性の方が圧倒的に多かった。アトピーの本人にしても親にしても、患者が女性だと見た目を重要視するから診察を受ける・受けさせる人が多いが、男性は放置する・されるケースが多いらしい。それでとんでもなく重症化してしまったりするそうだ。

働きだしてから職場に結構酷いアトピーの男性がいて、「病院行ってる?」と聞いたら、「どうせ治らないし死にはしないから」と言いながらボリボリやっていた。死にはしないが悪化すれば日常もままならなくなる病気だから、病院には行って欲しい。

二日目 土佐清水⑥

佐清水病院で初めてアトピーの処置を受けた翌朝。
夜は包帯キチキチで初め寝苦しかったが、結局ぐっすり寝た。ムズムズ痒みが出たとき包帯のせいで掻けないのは困ったけれど。薬を浸透させるための包帯は、掻かない (掻けない)という意味でも良いのかも。 それでも夜中になんとか掻こうとしたらしく、ところどころ包帯が緩んで内側のガーゼが飛び出していた。顔は乾燥しておらず、「ちょっと良い感じかな?」と思った。


朝ごはんを食堂で食べて、病院から処方された薬を飲んだ。SOD様作用食品(エスオーディーようさようしょくひん)といって、" アトピーに悪い影響を与える活性酸素 " を分解する酵素 (SOD) と同じ働きをするらしい。これを毎食後8包ずつくらい飲んだと思うのだが、これがまさに " 粒の粗い鳥のすり餌 " みたいで、飲み下すのが大変。口の中でボソボソして、水で流し込んでも喉につっかえ、お腹にも重たい。もう一つ、ルイボスTXという赤茶色の粉末を1包ずつ飲んだ。ルイボスティーアトピーに効くということで、これはそのルイボスティーを " 特殊遠赤外線で焙煎した濃縮エキス " だそう。これはお茶の渋みが濃縮されたような味で、口に含むと舌や口内がビリビリした。


病院から 「朝シャワーでグリテール軟膏を落として」と言われていた。しかし保湿剤を貰えなかったからシャワーを浴びたあとの乾燥が不安で、「夜まで包帯でいる」と母に言ったが、夜は病院のサンドバスで洗髪もできないからと、シャワーを浴びるよう促された。一応家からワセリンを持ってきていて、「もし乾いたら塗ればいいじゃない」と母。確か当時、入院患者に対して病院から『当院で処方される薬以外を勝手に使った場合、強制退院してもらう』と言われていて、子供らしく素直だった私は「ダメって言われた!」と母に抗議。「わかりゃせん。ワセリンくらいかまわんやろ」と母が大人らしく言い切って、しぶしぶ一階の風呂へ向かった。


民宿の風呂は広々として、家庭用の1.5倍くらいはあったと思う。脱衣所で包帯を取ってガーゼを剥がし、おそるおそる肌の状態を見た。肌全体に、グリテールパスター軟膏の赤みがかったオレンジ色がついている。ボコボコの皮膚の凹凸が軟膏で埋まっている感じ。いつもだったら、夜風呂上がりに薬をつけても朝起きるとパサパサに乾いているのだが、肌は湿度を保っているようだった。

シャワーを浴びて、石鹸で体を洗いグリテールを落とす。厚めに塗られたところはなかなか取れなかったが、多少でも残っているほうが乾燥しないんじゃないかと思ってそのままにした。いつもならゴシゴシ乾燥した皮膚を擦り落とすところだが、ケバだちは見えないしパリパリしていないから、擦らずにおいた。


シャワーを上がって体を拭き、そのまま服を着る。いつもなら考えられないことだ。お湯から上がった瞬間に肌が乾燥し出すから、すぐさま全身にワセリンを塗らなきゃいけない。ところが、全然大丈夫だった。乾かない。これには本当にびっくりした。前日の夜、看護師さんに朝シャワーしたあとの保湿剤が欲しいとお願いしたが、「いらないと思うよ」とニコニコ言われ、内心「そんなわけあるか!分かってないんだ」とがっかりしていたけれど、あの人たちは正しかった。退院後はやはり朝晩薬をつけないと乾燥したから、サンドバスの効果なんだろうか??


結局、そのまま夜の処置までワセリンを塗る必要も感じず、私は一日中「不思議だ、不思議だ」と繰り返していた。これは本当に良くなるんじゃないか…? そんな想いを抱いて、いやまだ分からんぞと早すぎる期待を打ち消した。
夜の処置で昨日の看護師さんに「全然乾かなかった!」と感動を伝えたら、「そうでしょう」とニコニコ笑っていて、きっと同じようなことを言う患者さんがたくさんいたんだろう。

薬つけ 土佐清水⑤

サンドバスから出て男女別になった処置室に入った。部屋に入ると、ちょうど私の前にサンドバスを出た人の薬つけが終わったところ。そうやって上手いこと回しているようだ。


パンツ一枚になって新聞紙 (だったかな?) の上に立ち、看護師さんが二人がかりで全身に薬を塗ってくれる。待ち合いにいた母も初めての薬つけは見学した。
顔、首、腕、体、足と上から順に全身、大豆やハトムギなどの植物を原料としているらしい半透明のVa軟膏を塗って、その上に鼻にツンとくるグリテールパスターなる軟膏を重ね塗りする。そしてガーゼを被せ、包帯でグルグル巻きに。顔にはグリテールは塗られず、包帯も巻かれなかった。手先は包帯ではなく白い綿の手袋。パンツの中にも当然薬は塗るけれど、包帯は巻かずパンツで封印。頭皮には白濁した液状の薬をシャカシャカ擦り込まれた。
顔は苦しいから最後に巻くのかな?と思っていたけど結局最後までやらずに終わって、私は顔はグリテール・包帯なしの指示だったそう。完全なミイラにならずに済んでホッとしたような、少し残念なような心持ちだった。母は、看護師さんたちの見事な手さばきで私がみるみるミイラ巻きされていく様を「おお…」と見ていて、後で「顔は免れて良かったね」と言った。


※ちなみに、Va軟膏は通常のステロイド薬の1/2~1/4のステロイドを含むVa(2)〜Va(4)と、全くステロイドを含まないVa(0)の数種類あって、症状に合わせて塗布。私は初めVa(2)からだった。色素沈着を取り除く効果があるという茶色いAOA軟膏というのもあった。グリテールパスターは赤みがかったオレンジ色で、明治時代からある軟膏らしい。
↓ 病院のHPに薬の説明がありました。
http://tosashimizu-hospital.com/smarts/index/64/
『丹羽博士の正しい「アトピー」の知識』(97)という本に詳しい説明が。もっと新しい本も出てるのかも?


薬つけを終えると看護師さんから、包帯は寝る間巻きっぱなしで、朝起きたらシャワーでグリテールを落としていいと伝えられた。シャワー後に保湿剤が必要だと言ったが、「塗らなくても大丈夫と思うよ」と軟膏は貰えなかった。正直大丈夫だとは思えず、なんとか貰えないかと思索したが諦めた。明日の夜の処置まで包帯を巻きっぱなしにしとく、という手もある。
軟膏は貰えなかったけども、看護師さんはみんな親切で親しみを持って接してくれた。当然土地の方言(土佐弁?)を喋っていたのだけれど、再現できるほどに(というかほとんど)覚えていないのが残念。語尾に"にゃー"とか "きー” とかついていた気がする。


処置室を出ようと動き出したが、本当にギシギシで関節が曲がらない。全身包帯を巻くとこんな風になるんだ!という感動すらあった。顔とパンツ部分以外グルグル巻きのため、首は曲がらないし肩は回らないし肘も膝も曲がらない。
えっちらおっちら民宿まで帰ったが、あまりにもぎこちなく歩くさまに母は笑っていた。


宿に着いてまず第一の関門が、上り框。民宿の玄関ということもあり結構な段差があった。母の手を借りつつ、曲がらない足をミキミキ曲げて登った先には階段が。これまたなかなかの段数と段差がある。手すりに掴まりながら、一段ずつコンパスのようになって登った。


ようやく部屋にたどり着いて一息。テレビを見たり、病院のことを話したりした。それにしても私から発散されるグリテールの臭いがなかなかで、母と「凄かね」と言い合った。部屋中になんとも形容しがたい鼻腔をくすぐる匂いが充満していた。
そして、寝る前になって何よりの困難が「和式トイレ」であることを知ったのだった。

サンドバス 土佐清水④

民宿で夕食を食べたあと、着替えとタオルを持って母と病院へ向かった。治療はたしか19時頃からだったと思う。


民宿ごとにローテーションで時間が決まっていたから、自然ほかの宿泊者と連れだって行くことになる。入院の "先輩" たちが、これからどんな処置を受けるか話してくれた。
まず "サンドバス" というのに入って、それから薬をつけ、薬の浸透を増す為に包帯を巻くらしいのだが、そのサンドバスとやらに10分かそこら入るだけで、自分では風呂に入れないという。しかもそのサンドバスは、お湯に浸かるのでは無く" 石に埋まる " という。どういう状況かよく分からない。細かい説明を求めると、「行けば分かるよ」と言われて終わってしまった。
母に「大丈夫かね」と聞いたら、「大丈夫さ。アトピーの病院なんやから」。おっしゃる通りなのだが、それでもやはり心配せずにおれない。そんな私に、母は力強く「なるようにしかならん」と言った。「なるようにしかならん」「死にゃあせん」は母の常套句で、「確かに…」と思わせる何か強い説得力があった。しかし、やっぱり不安…。


病院に着くと、まずはサンドバス待ちの列に並ぶ。その間、全ての処置を終えた患者さんが順に出てくるのだけど、頭のてっぺんから足の先まで包帯でグルグル巻きの人がいて、本当にビビった。目と鼻の穴と口だけ開けて顔もグルグル巻きで、間接が曲がらずにギシギシ歩く様は、まさにミイラ怪人。「私もああなるのか…?」と固唾を飲んだ。


サンドバス用の浴室は男女別に一つずつあって、一人ずつ入るようだった。私の前に並んでいた患者さんが中に入ってしばらくすると、看護師さんが顔を出して中に入るよう指示した。
脱衣場で服を脱いでいると、看護師さんが浴室の中から「下着も全部脱いできてね」と言う。中には看護師さんはもちろん前の患者さんもいるから少し戸惑った。でも患者さんとはアトピー同士だし、看護師さんはもうよっぽど見慣れているだろうと気づいて、「別にいいか」と全部脱いで浴室に入った。
浴室は家庭用の2倍くらいの広さはあったと思う。バスタブは大人が横になって頭ごとすっぽり収まるくらい。バスタブには赤褐色のBB弾みたいな石粒が満たされていて、その中に前の患者さんが埋まっていた(ちなみにこの石、九州の山奥で採掘された、遠赤外線を放射する特殊なものらしい)。バスタブの脇に看護師さんが腕まくり足まくりで立っていて、私に「体を洗っといてね」と言った。
石に埋まるってこういうことなのね、と思いながらシャワーを浴びて、体と頭を流す。その間にタイマーが鳴って、埋まっていた患者さんがもりもりっと石粒から身を起こし立ち上がった。看護師さんが浴槽の脇にあるもう一つのシャワーで体についた石粒と汗を流し、その患者さんは「お先に」と脱衣所へ引っ込んだ。


看護師さんがバスタブの石粒にじゃんじゃんシャワーをかけながら底から大きく混ぜ返し、中央を凹ませて私に入るよう促した。寝っ転がると看護師さんが石粒をかけて埋めてくれる。顔は頬っぺたに寄せるくらいで、顔面ごと埋められはしなかった(はず)。ホカホカ暖かくて、石の細かい肌触りも不思議な感触で気持ち良かった。その状態で10~15分くらいだったか。はっきり覚えていないが、そんなに長くはなかったと思う。
次の人が洗い場に入ってきて、タイマーが鳴って「いいよ」と言われた。石粒に沈んでいた身体を起こして、シャワーをかけて貰う。短い時間ながら身体はホカホカで肌も柔らかくなっていた。

しかし今まで2時間以上、湯船に浸かっては上がりガサガサの皮膚を擦りおとしてきた(※肌に良くありません)私には、とても不十分な時間に思えた。とはいえ後も控えていてどうしようもない。擦りたい気持ちをグッと堪えて浴室を出て、パジャマ代わりのTシャツとスエットパンツで気になる肌を封じ込めた。
そして薬をつけて貰うべく処置室へ向かった。


※20年以上前のことなので現在とは違うところがあるかもしれません。あと細かい記憶違いも。

民宿 土佐清水③

アトピー治療の為に泊まり込むことになった民宿は、いかにも民宿らしい建物だった。病院から歩いて10~15分くらいだったか。近くにスーパーなんかもあって、便利な立地だった。


気さくそうな女将さんが出迎えて、建物の案内をしてくれた。
広めの玄関のすぐ右側が8畳くらいの食堂。その奥に調理場と従業員さんの部屋があって、さらにその奥と廊下を挟んだ左側が患者さんの宿泊部屋。だったような気がする。そして左側の奥にはシャワー付きの風呂場もあった。
2階は玄関を入ってすぐ階段があって、登った右側に広いベランダの物干し場、左に学校にあるような石造りの大きな手洗い場があった。細かい間取りは忘れてしまったが、あとは右奥に和式トイレが2つ。どこかに無料の家庭用洗濯機もあった。他は6畳から8畳の患者さんの宿泊室で、2人から3人の相部屋になる。それが6〜8部屋くらいあったろうか。同時期に入所していたのがたしか20人くらいで、少なくとも2階は女性だけの部屋になっていた。


私たちの部屋は二階で、母に気を使ってか8畳間に私と母二人。テレビとコタツがあって快適な部屋だった。布団の上げ下ろし、洗濯は自分たちで。ご飯は朝夕2食付き。メニューは病院の決まりに従ったものが出された。
禁止なのは、コーヒー、チョコレート、ココア、動物性脂質全般(豚鶏牛の肉、バター、チーズなど)、ラーメン、揚げ物、ポテトチップスなどのスナック菓子、青魚(ちょっとは良い)など。痒みを誘発する物質や、活性酸素と結び付き肌の保湿性を奪う脂質を含んでいる、という理由から。


※ つい先日実家で、土佐清水病院を開設した丹羽靱負(耕三) 医院長が書いた 丹羽博士の正しい「アトピー」の知識 (1997年初盤)という本をようやく(!)自分で読んだ。丹羽医師の研究に基づく、アトピーのしくみ、独自開発した薬の成分とそれがどう作用するか、食べちゃいけないものがどうアトピーに影響するかなどについて書いてあって、今更ながら「はぁー、そういう仕組みなんだ」と思った(最新のものは多少情報が変わってるかもしれません)。

それでふと思ったのが、牛鶏豚肉がダメということだけど、馬や鹿、その他鴨猪熊なんかもやっぱりダメなのかなあ。とにかく脂が良くないみたいで、牛肉の赤い部分ならたまにはOK (アトピーが酷くなければ) ということだから、馬や鹿なんかはたまにはOKの部類かもしれない。以前熊鍋を食べてこれがまあ美味しいかつ脂がすごくて、その脂がトロリと上質な感じでいくらでも食べれそうな具合だった。上質な脂でもやっぱりダメでしょうかね。そしてさらには、鯨は…? 哺乳類だからやはりダメなのか。と思いながらも鯨ハムを買って、マスタードマヨネーズで食べたら大変美味しかった。


再び時を二十数年前に戻します。
荷物をほどいて一息つくと、すぐ夕食の時間になった。民宿の食事は品数豊富で美味しくて、やはり大豆で作った肉(風のもの)や、パン粉を付けてオーブンで焼いたコロッケなどアイデア料理が出た。たしかアトピーの人でも食べられるレシピを、病院でも紹介していたんだと思う。海が近いため魚介類も豊富で、その充実したメニューにホッとした。食事制限のために貧しい食生活になるのではと怯えていたが、案外やっていけそうだった。


夕食の後、着替えやタオルを持って初めての処置に出かけた。

土佐清水病院 土佐清水②

産まれて初めて飛行機に乗った。高知行きの飛行機はガラガラで、それでも通路側の席だったから乗り出して窓の外を眺めた。
ぐんぐん小さくなっていく街が、技術のはんだごてで作った回路基板に見える。母にその発見を伝えると、「そお?」と言われたが、後々空撮の街と回路板をダブらすようなCMを見た。
客室乗務員さんが来て「好きなところに座って良いですよ」と声をかけてくれた。空いている窓に張りついて外を眺める。巡航高度に達した飛行機からは、地球の丸い形が分かるような気がした。


高知空港から高知駅に行って、四国の最南端にある土佐清水市まで電車とバスを乗り継いだ。らしいのだが、私の記憶にあるのは高知駅前の坂本龍馬像とバスから見た四万十川だけ。四万十川は確かに大きな川だったけど、一度橋を渡る時に見えただけだから今では記憶映像もかなり不鮮明。
高知駅から土佐清水市までだいぶ時間がかかったと思う(googleで調べたら3時間くらい)。土佐清水は静かな港町だった。そしてめちゃくちゃ暖かかった。高知に着いた時も暖かいとは思ったけど、土佐清水は12月半ばにもかかわらず上着がいらないくらい。


着いてまずは昼ごはんを食べようと散策して、『土佐清水病院患者用メニューあります』と書かれたメニューボードを出している喫茶店を発見。そこで母と二人、肉の代わりにツナが入ったカレーを食べて、なかなか美味しかった。他にも大豆でできた肉(風のもの)の時雨煮をおまけにつけてくれた。これが結構肉っぽくて、これからの生活に勇気をもらった。
この大豆肉自体は "畑の肉" とか "大豆ミート"の名前で売られている。ついこの間、坊主をしている友達から水で戻すタイプの畑の肉三点セット(牛風豚風鶏風)をもらって久しぶりに食べてみたのだけれど、記憶と違って肉からはだいぶかけ離れていた…。調理の仕方が問題だったのかもしれない。


お腹を満たしていよいよ病院へ。何日も通ったくせに外観は全く覚えていないのだが、中は結構古びていたと思う。いざ中へ入ると、そこはアトピー患者でごった返していた。比較的軽い人から私以上に痛々しい症状の人、中高生から若い女性・男性、40〜50代の人もいたと思う。自分を棚に上げて、よくこんなに集まったもんだと驚嘆した。母ははばかりながらも "アトピー患者の見本市みたいね "と漏らしていた。それだけ圧巻の風景だった。
じゅくじゅくの地肌があらわになった頭部に、少ない毛髪を纏わせた7~8歳くらいの女の子が、静かに私の前を通りすぎていった。諦観か、疲れ果ててしまったのか、本当に子供らしからぬ静かな顔をしていた。ほかにも、自分がまだ軽く感じるくらい、大変な思いをしてきたんだろうという人たちが何人もいた。母も「あんたは相当酷かと思っとったけど…」と私の顔を見て言った。


受付を済ませて診察を待っていると、数日前から入院しているというおばさんが話しかけてきた。「よく頑張ったね、ここに来たらもう大丈夫。本当にここに来てくれて良かった」と、信奉に近いオーラがびりびり出ていて少し怖かった。おばさんはそれだけの効果を得たということだろう。


結構待ったような気もするが、呼ばれて診察室に入り、痩身の40代くらい?の先生の診察を受けた。症状はそれなりに重度だったようで、入院期間は治療をしながら様子を見て決めるとのこと。全身の皮膚の状態をみて、薬の付け方や飲み薬の量を決めていたと思う(最初の診察についてはだいぶうろ覚え)。


私の処置は夜からだった。治療の時間は民宿ごと月替わりのローテーションで決まっていた。母と私は宿泊先の民宿に向かった。


頼みの綱 土佐清水①

母が言った「高知に行ってみんね」。

この頃アトピーがかつてなく酷くなり、日々頭髪が大量に抜けるようになっていた。「このままではハゲる」と危機感を持った母が、高知県にある土佐清水病院に行ってみないかと声をかけてきた。

  • アトピー患者たちの最後の拠り所的な病院らしく、治療に評判がある。だが良くならなかった人がいるという噂もある。
  • 入院期間は診察次第で、およそ一週間から10日くらい。病院に泊まるのではなく病院の近くにある患者専用の民宿に泊りこむ。
  • 入院したら肉、揚げ物、チョコレート、スナック菓子など食べてはいけない。
  • 保険がきかない。

以上が私が母から与えられた情報だった。この病院については母が古い知り合いから教えてもらったらしく、その知り合いはアパートの隣の住人がここに入院するというので知ったそうだ。
インターネットどころか携帯電話すら普及していなかったこの頃。正直どんなところか良く分からない。 "アトピーが良くなる" という噂はたいがい眉唾ものだと思っていたけど、正直その時は藁にもすがりたい思いだった。それに今までの情報と違って真実味があるように感じた。「とにかく良くなる可能性があるなら行きたい」と母に伝えると、「よし、行こう」と診察やら入院やらの手配を整えてくれた。


両親は冬休みに入ってからと言ったが、私は一刻も早く行きたいと主張。正直学校をサボりたかったのもある。「少し早めに行ったら家で年越しできるかも」と両親も納得し、冬休みより一週間ちょっと早く、学校を休んで高知に行くことになった。母も付き添いのために、一週間ほど仕事の休みをとってくれた。

今度こそ良くなって欲しい、と切実に思った。でもあまりに長くこの状態が日常だったから、それが変化するとも信じ難い。それでも土佐清水病院に行って重度のアトピーが治った (※アトピーに全治はなく寛解) という人がたくさんいる。今までになく具体性のある治療先だった。まさに最後の頼みという心境。


そうしていよいよ明日出発、という日。学校で、親しい友達には「明日から病院に入院してくる」と伝えた。一人だけ公然と学校を休めるというので、ちょっとウキウキしているところもあった。のんきだったなあと我ながら呆れる。

家に帰って泊りの荷物をまとめ終えると、昼間に購買部で買っておいたミルクホイップクリームとチョコホイップクリームを挟みチョコレートでコーティングした『銀チョコロール』というパンを2つ、チョコレートとの最後のお別れに部屋で隠れて食べた。相当に甘くて今じゃ食べたいと思わないけれど、当時学校で大人気で、毎日弁当を持たせられていた私はクラスメイトや友達が美味しそうに食べるのをメチャクチャ羨ましく思っていた。そもそもチョコ以前に、こういう菓子パンは添加物の問題で我が家では御禁制で、「もう食べられないなら最後くらい」と良い口実になった(隠れて食べるにしても、当人的に)。袋は広告で慎重に包み隠してゴミ箱に捨てた。
さらには、夕食はすき焼きだった。「肉ダメなんじゃないの!?」と聞くと、母も「次いつ食べられるか分からんけん」。この時高校生だった兄は、" 妹が病院から戻ってきたら肉が食卓に出なくなる "ことを悲しみ、味わって牛肉をつついていた。そういえば兄は一番お腹が空く年頃に私のせいで肉、揚げ物が食べられなかったんだな…と今更申し訳ない気持ちになる。


翌朝、母と一緒に家を出た。父も兄も祖母も、意外に期待をかけるようなことは言わなかった。無責任に私に希望を持たせるのをはばかったのかもしれない。それにみんなも私と同じ、このアトピーが良くなるとは、なかなか思えなかったんじゃないだろうか。

いざ、思春期

中学1年の初夏、ついにやってきた。母に言ったら「おめでとう」なんて言ってたが、私としては何か暗雲立ち込めるような想いがした。
しかし、「思春期が来ればアトピーは治る」と医者が言っていたのは忘れない。漢方内科の医院長だけじゃなく、総合病院でも言われたと記憶する。ホルモンバランスが変わるから云々。もしかして、もしかして良くなったりするのかしら……。

が、やはり良くなったりなんてしなかった。どころかパッドの蒸れでかゆくて堪らず、やっかいな悪化要因がひとつ増えただけ。「結局私は一生このままなんだな」と諦念を抱いた。


小3くらいから自分のアトピーによる見てくれは重々承知していて、「一生異性に愛されることはないだろう」とすら思っていた。その分、「せめて人間としてちゃんと生きよう」と心に決めた。
たまには好きな子ができたりしたが、それでも一言二言話して喜ぶ程度で、仲を深めようなんて考えられなかった(元来奥手、という可能性もなくはない…)。
そもそも私が世間一般のように異性といちゃいちゃする図がまるで創造できず、そんなだから妊娠・出産なんてもう話にならない。もし万が一妊娠したとして、アトピーの酷い状態でお腹の出っ張った日常や入院出産が可能なのかと考え、大丈夫な気はまるでしなかった。それなのに毎月余分な手間だけが増えて、全くめでたくない心境だ。


さらには、である。良くなるどころか、むしろその後アトピーがみるみる悪化していった。原因ははっきり分からないが、どうも中学生になってよほど疲れるようになったみたいで、それが影響したんだろうか。
当時、母親が準夜勤務で遅く帰ってくる日は、伝達事項とともにその日あった出来事をノートに書いて置いておいた。物持ちの良いうちの親は未だにそれをとっていて、小学校の時はなんでもないようなことを楽しそうに色々書いていたのが、中学になると次第に疲れた疲れたが増えて、そのうち白紙のページになった。あまり覚えていないけど、授業時間がのびたり環境が変わった影響だろうか?


とにかく身体から顔から真っ赤に腫れて、頭皮も常にジュクジュク(崩れた皮膚から浸出液が滲む状態)になった。毎朝起きると布団に黄色い汁と大量の抜け毛。それでも学校には通っていたが、とにかく常に疲れていて家に帰ると寝てばかりいた。毎日毎日毛がたくさん抜けて「そのうちハゲるな」と戦慄を覚えた。10年に及ぶアトピーの症状が極まった感じだった。

経過

小学校中学年頃の写真を見ると、顔も含めて全身真っ赤で見るからにゴワゴワしていて、眉毛も無いし(かゆさのあまり自分で抜いてしまった)、かゆくなるからと刈り上げで前髪デコ上の短髪だったのが余計痛々しさを増している。
この頃の写真は恐ろしくてなかなか見れずにいて、こないだ実家に帰った時に意を決して十数年ぶりに見た。母と兄と三人での夏の旅行や、家でTシャツめくって腹を掻いてる写真、顔がジュクジュクだから撮られたくないと言ったのに先生に強制的に撮られた図工で作ったワニの被り物を頭に載せた写真など。写真を見たら当時のことをいろいろ思い出して感慨深かった。覗き込んだ母が「あんたよう見れるね。私は胸が痛む」と言っていたけれど、私は案外見出したら慣れた。


高学年になると多少落ち着いて、顔の症状が目立たない時期もあった。あまり写真を撮らなくなっていたのだけど、卒業アルバムなんかはアトピーだって分からないんじゃない?というくらい。髪の長さもまだ普通のショートヘアになって、眉毛もようやく復活した。
母の行きつけのヘアサロンで髪を切っていたんだけれど、いくら「あんまり短くしないで」と言っても毎回ザクザクに切られた。年齢的にそろそろ耐えられなくなって、「本当に短いのが嫌なので」とお願いしたのにやっぱり容赦なく切られて、憤慨して店を変えた。母が聞いたところによると、アトピーに悪いからと気を使ってくれたらしいのだが、流石にもう本人の意思を汲んで欲しかった。


波はあったものの症状が比較的マシになって、それまでよりは落ち着いて生活できていたと思う。それでも大きくダメージをくらったのが学校行事でのお泊りだった。
五年生の夏に宿泊訓練があって、市街地近くの山の中にある "青少年の家" 的な施設で一泊二日。運動したりキャンプファイヤーしたりするのだが、こういうところに泊まると必ず酷くなった。
みんなと一緒のお風呂は肌が十分に柔らかくならないうちに上がらなきゃいけない。アトピーで厚く固くなった肌はなかなか水分を吸収しなくて、固いままだと入浴後の薬がまるで浸透しない(カサカサをこすり落とせないという問題も)。先生の部屋を借りた薬つけも、早く皆に合流するために慌ててやっていた。
先生もちゃんと配慮してくれる人で、病気なのは仕方ないから必要な時間はちゃんと取れば良かったのに、この頃は "皆に合わせること" に必要以上に気を使っていた。

寝室も問題で、二段ベッドが4つばかり並んだ部屋やベッドの隅々はどうしても埃っぽいし、床は "ダニの温床"として避けるよう教え込まれてきたカーペット敷き。空気はどうしても乾燥するし、化繊のシーツや布団カバーが肌にチクチクしてちゃんと眠れなかった。
一夜明けると見事にアトピーは悪化。顔は赤く腫れて、右腕の間接に残っていた数少ない正常な肌も、カサカサで厚ぼったい皮膚にのまれてしまった。


で、そんな状態で家に帰ったら、父からそれ見たことかと言われた。そもそも「酷くなりそうだから行かない」と私が言い出して、先生に渡す説明の手紙を父が丁寧に書いてくれたのだけど、教室でこそっと先生に渡したつもりが、先生が「えーっ 行かないの!?」と大声を張り上げ、クラスの子達が なんでなんで!?となるその空気に耐えきれず、「やっぱり行きます」と言ってしまった結果だった。時間をかけて手紙を書いてくれた父は仕事から帰ってその手紙が無駄になったと知って、「それなら初めから行かないって言うな」と不貞腐れていた。


爆発的に悪化したものの、なんとか症状は落ち着いたんだと思う(とても細かく覚えている出来事がある一方、どうしてたんだか全く思い出せないことも多い(普通そういうものか))。結局翌年には楽しみに修学旅行へも行ったし、5、6年の時は特に楽しく学校に通っていた記憶がある。

お父さんと

朝はお湯を浴びて、夜はお風呂の後に、全身に保湿剤のワセリンと酷いところにはステロイド剤を塗っていた。
夜は父が薬つけの担当だった。几帳面なところがあって、人体図に塗る薬の名前を書き込んで柱に張りつけていた。その人体図に「ちんちん」なんて部位の名称まで書いてるもんだから、恥ずかしくて剥がすようにお願いしても、「お前の為たいろ」と聞く耳持たなかった。大人には、大概こういう子供の微妙な羞恥心は理解してもらえない。しょうがないから、友達が来る時は事前にそっと剥がして隠しておいた。


小学校高学年になって、薬つけの為に父親に全身をくまなく触られるのが嫌になってきた。明確な理由やきっかけはない。ある時突然嫌な感じがして、するとみるみるどうしようもなく堪えられなくなった。一般的に至極まともな反応だと思う。多くの子供に同じような時期に湧きだす感情。人間て不思議なもんだと思う。


しかし、父になんと言うか。なんだか怒られそうな気がして言い出しにくい。
父と仲は良かった。父の本棚から読めそうなものを探して読書するのが好きだったし、本や漫画に映画絵画など、父から影響を受けて興味を持ったものがたくさんある。でも、こういうことに関してはあけすけに喋れるもんじゃない。


で、母親に「これから自分で薬つける」と言った。母(朝の薬つけ担当)はすんなり「そうね」と言ったが、お父さんにも伝えて欲しいと言うと、「自分で言いなさい」。それで仕事から帰った父に、もごもごと「今日から自分でつける」と言った。そしたら、「なんで!」と聞いてくる。なんとなくとか何ででもと答えても納得しない。それでつい正直に「お父さんに体触られるの気持ち悪い」と言ってしまった。

まあ、怒った。当然っちゃ当然だ。私の為に7年あまり、毎晩せっせと薬を塗り続けてくれたのだ。それが「気持ち悪い」って…。「もう知らん。自分でやれ」とぷりぷり怒って部屋を出て行ってしまった。母は笑っていたような気がする。せめて「恥ずかしい」とかなんとか、他に言いようがあったのにと反省した。
一般で言うと、「もうお父さんと一緒にお風呂入りたくない」のイベントに該当するのかも。全身触られるとなると、それ以上のものがあるか。


結果、その晩から自分で薬をつけるようになった。怒っていた父も(本人は別に怒ってないと言ってたけれど)一時間ばかりしたら、普通に薬の種類やつける場所を説明してくれた。今まで毎晩最低でも40分は時間を取られていたのが自由になって、結果的に喜んでいた。今思うと、もっと早く自分でつけられたんじゃないかと思う。忙しい朝の時間に薬を塗ってくれていた母にも、本当に手間をかけたと思う。


自分でつけるようになって思ったのは、「薬をつけるためにザラザラボコボコジュクジュクの肌を触らなきゃいけないのがゾッとする」ということだった。掌の触感で肌のヤバさをひしひしと感じる。つけ終わるとげんなりするとともに、やっと終わったとホッとするのだった。