アトピー生活

アトピー性皮膚炎とのなが〜い付き合い

退院 土佐清水⑩

アトピー治療のために土佐清水病院に入院して一週間後、付き添いの母親が仕事に戻るため先に帰って行った。今まで母と二人だった民宿の部屋に、高校生と中学生の女子2人が来た。人見知りな方だったから初めは戸惑ったけれど、いざそうなればすぐに慣れた。夜の治療時間以外部屋でゴロゴロする生活に変わりはなく、変化といえば、民宿の食堂にレディコミがやたらあって、母の前では読めなかったどぎつい漫画を読む時間が増えたこと。そして私が来て一週間経つ間に、初め民宿にいた人たちは次々退院して顔ぶれはだいぶ変わっていた。

 

私の皮膚の状態はかなり良くなっていた。ジュクジュクした炎症は入院早期になくなり、硬く厚かった皮膚もこの頃には柔らかくなって、ブツブツも大概消えた。手のひらに深く刻まれたシワ(手相占いに困るくらい微細なシワだらけ)や、膝の迷路ができそうなくらいはっきりしたシワは薄くはなれど消えなかった。そして体幹の色素沈着 ( 黒ずみ) もさすがに一週間ちょっとでは無理。それでも顔や首、手足の黒ずみはほとんど綺麗になった。

それに伴い、病院で塗る軟膏もステロイドの含有量減。ステロイドの入った透明なVa(2)軟膏から、ステロイド量が少なかったり全く入っていない、色素沈着をとる効果があるという茶色いAOA(4)、AOA(0)軟膏にチェンジ。にもかかわらず、何でか自分的にはそんなに変わった気がしないでいた。当時土佐清水で出歩いた先や民宿で撮った写真を見ても明らかに綺麗になっているのだけれど、アトピーが酷い状況があまりに当たり前になり過ぎていたからか、一週間ちょっとでのその変化に気持ちが追いつかないでいた。

 

母が帰ってすぐ、治療の具合をみる一斉診察があった。男女別れて上半身裸になってずらっと並び、次から次に先生が皮膚の状態をみて治療の継続か退院かを決めていく。その日、女性の担当は丹羽医院長で、分厚い眼鏡越しに私の体や腕の関節をみて、2〜3日後に退院してよしと告げた。肌の状態が良くなっていたにも関わらず自分のアトピーが良くなることを信じきれないでいた私は、思わず「もういいの!?」と素っ頓狂な声を上げた。「んン?」と眉根を寄せた丹羽医師は、「ほんならもう少しいるか?」。思わずウンと頷いてしまって、結局総日数10日くらいで退院のところを、14日いることになった。

診察室を出てから、「でもここ保険が効かないんだった…」と猛烈に不安になり、両親に相談すべきだったと後悔。診察室に戻って「やっぱり早めに帰ります」と言えないかどうか右往左往して、結局諦めた。後で分かったことには、そこはやはり病院もちゃんとしていて、診察の後、親に確認の連絡がいったらしい。家に帰ってから、「子供さんがまだ居たいって言うんですけど」という電話が来たと爆笑された。それでも念のためと思ったのか、両親は長居を了承してくれたらしい。

 

そうして退院の日、父親が夜行バスで10時間かけて高知まで来て、さらに電車とバスを乗り継いで3時間。長い長い時間をかけて民宿まで迎えに来てくれた。父は基本飛行機に乗らない。高くてもったいないのと同時に、堕ちるのが怖いらしい。

女将さんが父が来たことを部屋に伝えに来て、やはりどう見てもアトピーは良くなっているし、お父さんはどんな顔をするかな?と楽しみに出て行った。が、私の顔を見て「おう」と言ったきり、期待したような言葉は聞かれなかった。

父が民宿で宿泊代、病院で診察台を払って家路についた。ちなみに、両方合わせて「確か80万くらいした」らしい。民宿は一泊二食付きで4000〜4500円くらいだったそうで、母と合わせて宿泊費10万弱として、やはり健康保険適応外は相当なものだ。今になってその金額の大きさが実感を伴って分かる。

アイセイ・・・「人間なんて人情盗坊 二親に捧げられし愛を 一体どうやって返そうか?返そうか?」 後年、エレカシの『地元の朝』のサビを聞いてわぁっとなった。人情どころか、かけさせた金すら未だに返せていない始末である。

 

佐清水からの帰りは、私も一緒ということで飛行機だった。久しぶりに家に帰ると、母、兄、祖母が出迎えてくれた。兄から「まさかこんなに良くなってるとは思わなかった」とようやく嬉しい言葉をもらえて、祖母も良かったねと喜んでくれた。父と母も喜んではいたようだったけれど、いつぶり返すかとの懸念もあったようで、慎重に経過観察しなければという感じ。

 

帰ってからも軟膏塗布はもちろん、アトピーを悪化させないための禁肉・禁油もの生活は当然継続。兄もそれに巻き込まれて、高校生という最高に肉や揚げ物が食べたい時期に家では魚と大豆がメイン料理。兄は外で友達と肉や揚げ物を食べていたようだったけど、高校生のことだからそう頻繁に飲食店に行くわけでもなく、だいぶフラストレーションが溜まっていた。母は母で、ただでさえ迷う夕食のメニューがさらに限られ、晩ご飯どがんしよう( ;´Д`)という苦しみに苛まれていた。覚えている常連メニューは、煮魚、焼き魚、刺身、湯豆腐、豆腐ハンバーグ、野菜をいろいろ炒めたもの、野菜をいろいろ煮た物、肉なし肉じゃが、肉なしカレーなど。兄は珍しく幼い時から湯豆腐という侘びた食べ物が大好きで、湯豆腐の頻出には喜んでいた。

私はというと、ご飯のおかずよりもチョコレートやスナック菓子が食べられないことの方が辛かった。それでも退院して数年は特に、元に戻るのが恐ろしくて隠れて食べるようなこともしなかった。

子供の時よりもむしろ年齢を重ねてから、辛抱できないことが増えたような気がする。

 

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