アトピー生活

アトピー性皮膚炎とのなが〜い付き合い

皮膚科への通院

小学校から中学一年にかけて、各種民間療法も加えて試していたが、基本的にはずっと総合病院の皮膚科に通い、そこで処方される薬を塗っていた。たしか粉薬も飲んでいて、かゆみを抑えるという抗ヒスタミン剤だったか。これは甘めで苦じゃなかった(はず)。

月に一度くらいの頻度だったろうか、病院で肌の状態を見せ、血液検査をして薬を処方してもらった。はて、血液検査は何の為だったのか。と思って検索したところ、IgE値ってのを測っていたのかなあ。『アレルギー原特定とアレルギー炎症の数値化』というような情報が出てきた。肌の炎症の度合いが数値として出てくるから、治療の目安になるらしい。


そこは母の勤め先(母は内科の看護士)で、母と皮膚科の看護士さんとは仲が良かった。それで母が「私が採血しとくよー」と言うのだけれど、母の採血がまあ痛くて痛くて。針が血管にちゃんと入らずに何度かブスブスやられて、血を抜く時も何でか酷く痛かった。一度やられて懲りてから、「お母さん下手くそなんでやらせないで下さい」とお願いしていた。


この頃女性の看護士は、繋ぎの白いスカートにナースキャップが決まりの格好だった。この姿を思い浮かべるとつい "看護婦さん" と言ってしまう。子供ながらも、あの格好は華やかで素敵に見えた。先日、母が看護士を始めた頃の写真が出てきて、病院の屋上でナース服の母と同僚が微笑んでる姿に、なんとも言えぬ淡い感情が浮かんだ。しかし母曰く「スカートは動きづらいしナースキャップは蒸れて不衛生」だから「無くなって本当に良かった」と、廃止は当然の流れだったようだ。


皮膚科の先生は、自分で開業したり、別の病院に移ったりで数年ごとに変わっていた。「大丈夫大丈夫」しか言わない適当な先生もいて、看護士さんに後から「あがんこと言って診察したあと執拗に手ば洗いよらす」と教えられたことも。「こんなに酷くなったのはお母さんの責任ですよ」と頭ごなしに母を責める医者もいて、「こいつお母さんが日々どんな苦労をしよるか知らんくせに。自分の子供がアトピーでもなかろうに」とムカムカして意思表示に睨んでいたら、察してくれたようで「まあ、大変でしょうけどね」と取り成していた。


嫌なことばかり覚えているようで恐縮だが、私はどうもいまだに医者に不信感がある。
数年前、東京のある総合病院で大きめの粉瘤の診察を受けて、「しこりをなくす薬を出します」と言われ薬局に行ったらゲンタシンが出てきた。アトピーの炎症からしょっちゅうできものができて、昔からよく使っていたゲンタシン。「これは化膿止めでしこりは消えませんよね」と薬剤師に言ったら「そうですね」と言われて、診察費が高かっただけにはらわたが煮えくり返った。結局、別の診療所で切ってもらって、『粉瘤に塗ったら内包物が消える・出る薬』なんてものは存在しなかった。本当、病院の評判は事前に調べないといけないと思う。
※もちろん、頼りにしている先生、素敵だと思う先生もいます。


一度、「医学本に重度アトピーの症例として写真を載せたい」と言われたが、見せ物になるようで断った。『他のアトピー人の為の医学貢献』が浮かばなくも無かったが、人目にさらされることへの恐れが先に立った。
結局通院して症状が良くなることは無かったけれど、後から聞くに、当時はまだステロイド外用薬の副作用が大きく問題視されていたこともあって、両親が医者のいいつけよりもステロイド剤を少なく、控えるようにしていたらしい。言われた通りに使用していればどうだっただろうか。

強迫神経症的な

全身の肌が赤くむくんで、カサカサじゅくじゅく、特有の嫌な匂いを放つ。そんなんだから、何か "漠然とした不安" みたいなものに憑かれたりするのかもしれない。


アトピーの悪いものを集めて宇宙に飛ばす』というイメージに取り憑かれていた時期があった。なんのこっちゃ、という感じだけども。小4くらいだったか。

全身を撫でるように空中で掌を動かし(大丈夫大丈夫、悪いことない)と心の中で呟きながら、全身の悪いものを集める。そして手をピストルの形にして空に撃つ。人に見られたら完全におかしな子だと思われるのは分かっていたから、家や学校、道すがら人が見ていない隙にやる。フッと急に不安が湧いて来るとどうしようもなくて、撫でる、撃つを何度も繰り返した。授業中でも発作が起きるたびこっそり小さくやっていたが一度先生に見られた。先生は怪訝な顔をしていたけど何も言わなかった。
たぶん、鍵閉めたって分かってるけど何度となく確認しないでおれない、火消したって確信はあるのに繰り返しコンロを見ずにおれない、て感覚に近いと思う。当然どうなるわけでもないと分かっているのに止められなかった。


小学生の頃、◯の集合体が気持ち悪くて仕方なかった。虫の卵の集まりとか、梱包材のプチプチとか。◯では無いがひまわりの中心部(種の密集)なんかも。見てしまうとウーッとなって不安の衝動が込み上げてくる。それもまた全身を撫でて撃って、という動作につながる。

この『集めてBANG』に囚われていた頃、風呂上がりすぐ、洗い場で全身に酸性水を吹き付ける療法をしていた。父親が霧吹きで全身に吹き付けていくのだけども、このとき吹き付けた水が、肌の表面に大量の小さい◯の集合体を作る!ただでさえ堪らないのに、自分の肌上に、次から次へと発生していくのだ。父の目前ではあるがもう耐えきれず、霧吹かれたところを空中で撫でるようにしては緩くピストルを作り、浄めの儀式を繰り返した。さすがに父も気づいたが、なんてことない子供の遊びと気に止めないかな、と楽観して続けた。


それがある日の霧吹き中、父が耐えかねたように語気強く「なんばしよっとや」と。「別に…」と答えるしかない。「悪いものを集めて宇宙に飛ばしてるんです」なんて言って「ああ、そうや」てなるだろうか。険しい眼差しで「やめろ。気持ち悪かね」と言われてシュンとした。それから、とにかく霧吹き中は目を閉じて、ギギ…と歯を喰いしばって堪えた。


しばらくして、父が私の風呂場での奇行につい触れて、「猫を追っ払うためにエアガンで撃っとったけん、猫に取り憑かれたっちゃなかろうかと思った」と言う。私のアトピーに動物が良くないからと、家の回りにたむろしている野良猫をエアガン(私が友達の兄からもらったもの)で撃っていたらしい。そして私が手で空中をかく行為が、猫の動きに思えたらしいのだ。
「当てよらんちゃろ?(威嚇射撃だよね)」と聞くと、「狙っとるけど当たらん」とのこと。そんなことは止めてくれと丁重にお願いしたが、暫くパンパンやっていたようだった。 それでも私の儀式への誤解から不安を覚えたのか、そのうち撃つのを止めた。


父も「猫の呪い」なんてものが脳裏に浮かんだわけで、人それぞれ、他人からは思いもよらないような思考形式があるんだろう。と、ホッとした。とはいえ宇宙にBANGしていることは言わないでおいた。


酸性水について
アトピーの悪化にともなう化膿など黴菌の殺菌が必要な状況には効くが、カサカサの改善にはならず、長く恒常的に使用すると逆に乾燥が酷くなる…と現在のかかりつけの医師の本にありました。
個人的所感としても、膿をもったジュクジュクが涸れて感動しますが、それを越すと逆につっぱってきます。硫黄泉も同じだなと感じます。

漢方

小4くらいから通いだしたのが、漢方を扱っている内科の診療所だった。そこは消化器内科だけれどアレルギー診療も掲げていた。
母が知り合いからここの漢方がアトピーに効くと聞いたらしい。「この頃はとにかく良いと聞けば何でも試した」と母の談。


診察室の壁には、いろんな種類の茶色いカラカラの葉っぱが入った瓶がたくさん並んでいた。診察台に横になって、院長がお腹をあちこち押して痛いかどうか聞いてきた。内蔵の状態を診ていたのだろうか。後は肌の状態を一通りみて、漢方の配合を決めていたようだった。


その漢方薬、パックだったか葉っぱだったか、煮出すのは親に任せっきりだったからまるで覚えていないのだけど、出来上がりは泥水みたいな色をしていて恐ろしく不味かった。鼻を摘まんで、苦味をこらえてなんとか飲み下した後にグワッと押し寄せるえぐみと臭み。一口飲む度にえずく。「おおげさかねぇ」という母に「飲んでみぃ」と差し出したら、一口嘗めて身震いしていた。「ほれみろ!」と得意げに胸を張ったけど、「あんたの体のためたいね」と言われると返す言葉はない。


これが1日2回200mlずつ。神棚に供えるカップ酒の空き容器に入れて台所のテーブルに並べられていた。朝学校に行く前に飲んで、学校から帰ったらまた飲む。初めこそなんとか頑張ったけれど、しばらく続けて効果がみえないともう見るのも嫌気がさした。
兄が友達を連れてきて、罰ゲームに使おうと言い出した時、兄の友人が「妹さんの薬なのにいいの?」と気を遣ってくれたのだけど、丁重に差し出した。飲んだ友達が思わず噴き出して「これやべえ!」と大いに盛り上がっていて、自分はえらいもんを毎日飲んでいるんだなと再認識した。「ささ、もう一勝負どうぞ」ともう1 カップ運んでいったが、あえなく断られてしまった。
それでも基本的には毎日自分で飲んでいた。たまにどうしても手が出ずに、空き瓶をチェックする母に「減っていない!」と怒られたりしたけれど、捨てはしなかった分まだ真面目だったと思う。


結局しばらく経っても症状に変化は見えず、病院で何度か漢方の配合を変えられたものの効果はなく、そのうち院長が「思春期になったら自然と治るよ」なんて言い出した。生理が来れば治る、ということらしいが、男の子の場合はなんだろう。変声期が来れば治る、だろうか? 昔はアトピーは成人するまでには治ったというから、その感覚で言ったんだと思うけれど…。
なんと最近になっても、友達のアトピー性皮膚炎のお母さんが、皮膚科の医者に「アトピーの高齢者って見ないでしょ。だからお婆ちゃんになる前に治りますよ」と言われたとか。その時お母さんはもう60歳。お婆ちゃんて何歳から?という疑問もあるし、 70、80になったらどんな変化が起こるというんだろう。
アトピーの高齢者を見かけないのは、重度のアトピー性皮膚炎が現代病で、大人になっても治らなくなったのがまだ近年だからじゃないのか。アトピーの高齢者は今後数十年したら続々出てくるに違いない。


他にもこの院長は「アトピーの子はどうしても暗くなりがちだけど、君は明るくていいね。大丈夫だよ」なんてわけの分からないことを言ってきた。要は匙を投げられたということだったんだろうな、と今にして思う。また、ここの看護士さんが「ブツブツを掻いて出た汁が他のところについてまたブツブツができる」なんて言っていて、『それじゃあアトピーは感染するじゃないか…』と母と顔を見合わせたりもした。※ 感染しません。
ある時、診察の待ち合い中、母親が院長の息子さん (医者) から声をかけられた。「父はアレルギー診療を色々やっていますが、ちゃんとした皮膚科で診て貰ったほうがいいですよ」と。母はこの人を「誠実な医者だと思った」そう。そんなこんなで、そのうちここにも通わなくなった。


それがいま、その息子さんが院長になってから、母親がかかりつけにしているらしい。逆流性食道炎で長く近所の医者にかかっていたが、薬ばかり増えて一向に良くならない。それでかつての誠実な印象もあってこの先生の診察を受けてみたところ、少量の薬(漢方ではない)ですっかり良くなったそうだ。


※ 漢方全てが効果がない、というつもりはありません。

婆ちゃんと祈り

両親と兄と、父方の祖母と一緒に暮らしていた。祖父は私が産まれるだいぶ前に亡くなっている。


共働きの両親に代わって、祖母が私と兄の面倒を見てくれた。看護師の母親が準夜勤の時は晩御飯も作っていたし、年二回、彼岸のこし餡おはぎは本当に美味しかった。「人を傷つけるようなことは決してしちゃいけない」というような、道徳的なことをよく言っていた。どちらかというと、思ったことを溜め込みがちな性格であったと思う。


祖母は朝夕まんまんさま (仏壇) にご飯やお茶をお供えして、日蓮宗のお経をあげていた。台所には神棚もあって、こちらにも朝夕手を合わせていた。信心深いというより、大正生まれとしては当たり前のことなんだろう。祖母は朝夕のお祈りの最後に必ず、孫のアトピーが良くなりますように…とつけ加えていた。そして「婆ちゃんがちゃんとお願いしよるけんね」と言った。

私も少なくとも小学生の間はずっと、寝る前には必ずまんまんさまに手を合わせ、「今日もみんな無事に過ごせてありがとうございます。明日も宜しくお願いします。アトピーが良くなりますように」などと拝んでいた。毎日が寺参拝状態である。


ある日、アトピーの状態が酷くてボリボリ一心不乱に掻いていたら、祖母が哀れんだ眼で、「よっぽど前世の業が深いんやろうねえ」と言った。
前世の業。つまり前世で悪いことをした報いとしていまこんな目にあっている、というのである。そういう考えが大昔から、ある種一般的に存在するのは知っていたが、それにしても病気で苦しむ人に物凄いセリフだな、と思った。


田舎にいる母方の祖母も、集落の神社で私の快癒を祈ってくれていた。ちなみにこっちの祖父は私が幼稚園の年長くらいまで存命だった。酔っぱらって「良く来たのー」とにこにこしている顔と、病院のベッドで眠っている顔だけが記憶にある。よく酒を飲む人で、肝臓ガンで亡くなった。


母の田舎は天草諸島を臨む山の斜面にあって、周りは畑や田んぼが広がっている。
家からすぐの山道に入って10分くらい、木造や石造りの鳥居がポツポツと並んだ奥に、木に囲まれたごく狭い平地がある。そこに古びた木造 (いまはプレハブ) の小さな社があった。畳四畳分くらいだったか。宮司などはおらず、集落の人々に管理されている。名前を影清神社といい、藤原影清が祀られている。


檀ノ浦の戦いで両目を失いながらも逃げ延びた(もしくは逃亡中に失明した?)影清がこの山中に潜伏し、盲目の不便を知ったことから聖人化。村人に親切に接して皆から敬われた、という縁起らしい(母談)。
景清の伝説やゆかりの地は全国各地にあって、一般によく言われるのは後年眼病にかかって失明したとか、「源氏の世なんて見たくない」と自分で目をくり抜いたという話。ざらっと調べた限りでは、この聖人伝説はちょっと珍しい(一般の伝説から大きく逸れたような)話なのかなと思う。

母も含めその集落の現住人は、江戸初期の一揆弾圧で農民が死に絶えたところに、兵庫県の小豆島あたりから入植してきた人達の末裔なんだそうだ。景清神社は元住んでいた人たちが祀っていたのか、それとも実は移住の時に持ってきたのか。時代を経る中で言い伝えが変化した可能性も考えられる。宮崎県に景清を祀る生目神社というのがあって、もしかしたらここから分社されたものなのかもしれない。


ともかくとして、この影清神社は全国にある他の影清神社と同様、眼病にご利益があると言われている。紙に年齢の数だけ『目』と書いてお参りし、社内の壁に貼っていく。古い木造の壁に、習字で「目目目目目目目目目目…」「めめめめめめめめめめ…」と書かれた半紙がたくさん張り付けてあるのは、なかなか圧倒されるものがあった。集落自体なかなかの山中にあるのだけども、ご利益を頼りに全国からお参りに来る人がいるらしい。中には7つ、8つの「め」もあった。
集落の人たちは眼病にかかわらず厚い信仰を寄せて(というか当然のようにお参りして)いて、母方の祖母なんか80歳を過ぎても毎日のように通っていたそうだ。景清様に日々の平穏を祈り、私のアトピーが治るよう手を合わせてくれた。「災難は水の難、水に流して下され」。長いお祈りの言葉があったのだが、唯一ここだけ覚えている。


アトピーの話とは離れてしまったけれど、この"祈る"という行為、清廉で良いものだなあと思う。年をとるにつれてまんまんさまも拝まなくなってしまったが、それでも寺社仏閣で手を合わせる時は常に真剣だ。その真剣さがあの澄んだ空気を作るのかもしれない。


何せ良かったのは、家族が私のアトピーを原因にお金のかかる神様に祈らなかったこと。まあ、民間療法もある種の信仰と言えなくはないが。

あるある? 〜小学校時代〜

<いろんなものをベタベタにする>
自然に保湿ができないため手先にもワセリンをつける。できるだけ肌に擦り込むようにするが、どうしても油分が残る。故に基本的に触った物がベタベタになる。簡単に拭けるものならいいが、

  • リモコンのボタンはやっかいで、拭きにくいし、拭いたティッシュがくっついたりする。
  • 黒い本の表紙やCDのブックレットにしっかり指紋が残る。これは丹念に拭いても綺麗に取りきれない。友達に借りたものなど、細心の注意が必要。
  • 消しゴムがテカテカになって消せなくなる。こうなるともう患部を削り落とすしかない。気をつけてプラスチックケース以外は触らないようにせねばならない。

同級生に「はさみ貸して」と言ったら「嫌だ」と顔をしかめられたことがあった。「貸すとベタベタになる」と言われてグサッと来たが、確かにその通りなんです…!



<「髪に砂ついてるよ」と言われる>
つまり「フケ出てるよ」ということである。この言い方は優しさなのか、いやらしさなのか。未だに判別がつかない。



<見せ物扱いされる>
いかに肌を隠そうと頑張っても、どうにもできないのが体育。水着は6、7月だけの辛抱だが、体操服は一年中。あのブルマー。つけ根から丸出しになる足。
体操座りで待機中、剥き出しになったブツブツの腫れた肌を、女子生徒の一人が「ねーねー、触らしてぇ」と意地の悪さたっぷりに聞いてくる。そして指の先でつついて「キャーッ」と声をあげ、子分みたいな友達にも触るよう促す。そして二人で甲高い笑い声を立てるのだった。
さらには「◯◯ちゃんも触ってみなよ」と回りに拡大させて行く。話を振られた大人びた上品な女子生徒が、私の足を見て眉をしかめ、真剣に首を横に振ったあの顔。何も言わずとも感情が手に取れるような、いい表情だった。こちらとしても、その怖れが分からないわけではない。
もし自分が正常な肌だったら、アトピーの人に対して「うつらないかな…」という気持ちすら抱いたのではないか。※ 伝染しません。



<ちょっとした優しさに心打たれる>
当時、私の学校でプールの着替えは男女いっしょだった。せいぜい男子が前側、女子が後ろ側というくらい。みんな片側にゴムが入ったバスタオル(最近はラップタオルと言うみたい)をガボッと被って、その中で水着に着替える。
ある日そのラップタオルを忘れてしまって、「トイレで着替えるのやだなあ」と思いながら教室を出ようとしたら、一人の女子生徒が「忘れたの?」と声をかけてきた。そして、「うちの使っていいよ!」と自分のラップタオルを差し出した。そんな直に肌に触れるものを私に!?と驚嘆し、「本当にいいの…!?」と聞くと、当然のように私の手の中に押し込んだ。
身長が高くて、放課後の陸上クラブに所属していて、大きなフォームで走るのが速かったTさん。あなたはなんてやさしい人なんだ! 私は溢れんばかりの感激を胸に、「今後クラスでこの人に何かあったら、必ず味方になろう」という誓いを反芻したのだった。

実際、私の肌のことなどさして気にせず接してくれる子も、たくさんいたのだ。

小学校3年生くらいだったか、うちにバブルスターが来た。
バブルスターとは、浴槽に備え付けた器械のノズルからぶくぶく泡が出るという家庭用温浴器で、神経痛や疲労回復に効くと謳われていた(ようだ)。それがアトピーにも良いとかで、看護師だった母が病院の同僚から譲ってもらってきた。
ヴーというモーターの唸りとともに泡がとめどなく出てきて、設置当初はだいぶはしゃいだ。泡はきめ細かいものではなくて、湯船がボコボコなるのもノズル回りの狭い範囲だったけれど。


ノズルを持って、顔、首から上半身、手足…と流れ出す泡をあてていく。当時は可愛らしいもので「よくなるかな?よくなるかな?」と期待を持って、目新しさが無くなっても辛抱強くあてつづけた。
まあ、お分かりの通り結局何ら効果は無かった。


いまネットで検索したら、原ヘルス(バブルスターのメーカー)について週刊新潮のWeb記事で、『原ヘルス社長が設立した会員組織が訪問販売法違反容疑で捜査』『バブルスターの浴用剤が薬事法違反』などとあった。
良くあるピラミッド型の販売方式だったらしく、色々と問題が浮上したのが1990年前後。わが家に来たのはその2~3年後になる。嗚呼あの時、ネットが発達してればね…。
効果は無くとも辛抱強く数年は続けたと思うが、そのうちちょっとした風呂のアクセントに変わって、やがて壊れた。


他にも化粧水だなんだと試したが、効果が確信できるものはなかった。効果は出ないのだけど、"実は少しずつ効いてるんじゃないか" "良くはなってないけど酷くなるのを抑えてるんじゃないか" など 一抹の期待を捨てきれなかった。
希望にすがりたい者のそういう想いを突くように、売る側は「体質を変えるのには長い時間がかかる」「せっかくここまでやってきたのが無駄になる」「やめると反動で悪化する」などと言いやがるわけである。
なかでも酷いのは、「悪いものを全部出しきるために一度悪化する。悪いものを出し切って初めて良くなる」というもの。どれだけ酷くなっても「いま毒素を出している最中なんですよ!」といけしゃあしゃあと言い逃れしてくる。現にこの言いぐさに引っ掛かって重篤化したという話は多い(こういう商法はアトピーに限らず良く耳にする)。
そもそも悪いものって何だ、という話だが、当時アトピーについて医者の間ですら分からないことが多かったようで、いわんや我々においてをや。


こうして「全て嘘であり所詮いいカモである」と悟った(ひねくれた)私だったが、それでも親、特に母としては街で呼び止められるとついつい話を聞いてしまう。私と並んで街を歩くと、薬屋やら漢方屋から良く声をかけられた。
それにとどまらず色んな店の店員や知り合いなんかから、善意こそあれ、あれが良いらしいこれが良いらしいと有象無象の情報が飛んでくる。それらに辟易しつつ、「だまされたらいかん」と撥ね付けるのが常だった。

地獄のプール

母親がここしばらく、自分の子育てのやり方を振り返って「良かったのかどうか…」と想いを巡らせているらしい。そのなかで、「あんなに厳しくしなくてもねぇ…」というのが、小学校の体育のプールだ。


アトピーが全身酷くなった小3の頃から、プールが嫌で仕方なかった。
醜い肌を白昼のもとに露出するのはもちろん、まずあのプールの入口にある塩素シャワー。しみる。「しっかり浴びなさいよ~」という先生の目が反れた隙にシャワーをかいくぐりながら突破。先生に喋りかけたクラスメイトに心から感謝。だがその先にはあの腰洗い槽が控えている。塩素の匂いをツンと立ち昇らせながら。
プールへの通路を塞ぐように設置されていて、腰までの高さに張られた高濃度の塩素水。その中をざぶざぶと進まなければ、プールサイドにはたどり着けない。
冷たいからという理由で狭いヘリを壁に張り付くようにして越える者(そして落ちる者)もいたが、そこまで目立つ行動はしたくない私は、歯を食い縛りながら痛みに耐えた。とにかくしみる。


プールサイドにたどり着いて、汚い肌を、己の存在を隠したい一心で小さく小さく準備運動を済ませ、ようやくプールの中へ。水のなかに入っていれば、まだ肌の状態は目立たない。
及び腰な私の様子に水が怖いと早合点した女の子達が「大丈夫、怖くないよ!」と励ましの声をくれる。説明するのも億劫なので、曖昧に頷いてプールに潜る。


もうこのままずっとプールに入らせてくれればいいのだが、途中プールサイドで先生の話を聞かされたり、一人ずつ何m泳げるか云々で長いこと列に待たされたり。
一度水に濡れた肌は猛烈に乾く。全身がつっぱり、肌の表面には干魃の大地のように白い筋がピシピシ入ってくる。極力肌が張らないようにするためなのか、自然と顔がひょっとこみたいにすぼまっていき、大変みすぼらしい風情をかもす。


いまなら「乾くんで」と言ってサッと薬を塗るくらいどうでもないことだが、当時は薬を塗る姿を同級生に見られることすら嫌だった。なんでしょうね、この "人と違うことをしたら攻撃されるんじゃないか" マインドは。
こうしてようやっと水泳の時間が終わったら保健室に走る。そしてポサポサに乾いた肌にワセリンを塗りたくる。(この時は自分で塗っていたような?)


こんな想いをしてまで授業に出る必要があるのか。否。
プールの朝、「ちょっと頭が痛いなあ」と言ってみたり、体温を何回も計って余熱?で37度弱までもっていったりして、母親にプールを休みたいと言うが、それぐらいなら出ろと決してプールカードに"欠席"と書いてくれない。
「塩素は肌に絶対に良くないし、日焼けでまた顔がぐちゃぐちゃになったらどうする」と食い下がるが、「ちょっとくらい大丈夫。あんときは三時間泳いだ」と取り合ってくれない! めそめそしたことは言いたくないが致し方なし、「アトピーをさらすのが嫌なんや!」と訴えた私に、母はまさかの「よかけん入れ」。


切実な心情を吐露して母親に一蹴された私は、母の筆跡を真似ようと懸命に努力した。しかし先に偽造者が出て、先生が「いくら真似ても子供の筆跡はすぐ分かる」と豪語するのに諦めた。
たまに授業の三時限前くらいから渾身の演技力を発揮して先生をだまくらかし、プールを回避できることもあったが、結局小学校のうちは歯を食い縛ってプールに入り続けた。



それだけプールを強いていた母がいま、「何もあんな厳しくせんでも良かったとにね」と言ってきた。
「まあ分かるよ、"アトピーだから出来ない"ということを安易に肯定したら、それを言い訳に逃げがちになるんじゃないかって心配したんだよね」と言うと、「そういうわけじゃない」。「じゃあなんで?」と聞くと、母は一間置いて力強く「わからん」。なんでやったっちゃろうね~と首を捻ねり続けている。
子供ながらに慮っていた親の心は見当違いだった。じゃあ一体なぜなんだお母さん。「あんた良く頑張ったよねぇ」とか今さら労う母。
まあ、今はもう遠い過去のことではあるが、かといって頑張って入り続けた結果何になったのかは分からないままである。

アトピー性皮膚炎とは何か

 医学的なことは専門ではないし、症状も人によって差異があるので私の実体験として。

<症状>

肌が自然に保湿できない

朝晩2回、シャワーや風呂で肌を柔らかくしてから、ワセリンなどの保湿剤を全身に塗る必要がある。

水に濡れたあとは恐ろしい速度で乾燥する。手先なんかは手を洗うたびに保湿剤を塗らないといけないので面倒くさい。足湯に入るのも気が引け、遊園地のウォーターアトラクションに怯える。

外気(特に秋冬)や空調でもすぐに肌がパリパリになって、公共交通機関は2〜3時間乗っているとてきめんに乾く。長距離バスは特に乾燥度が高くて、目的地に着く頃には全身ボソボソで即風呂に入らないと活動できないくらい。

衣服との摩擦でも乾燥するから(締め付けの問題もある)、家にいる時やちょっとの外出はダボっとした服。状態が悪い時は割とどこへでもダボダボの服で行き、「部屋着じゃん」と人に笑われたりする。

 

悪化段階

乾燥が酷いと粉を吹いたようになったり、皮膚がよれてシワシワになったりする。そこから、おおよそ以下のようなコースで酷くなっていく。 

  • 肌色のブツブツ、もしくは赤みをともなった盛り上がりができてくる→肌の表面が面的に赤く腫れあがる→腫れた範囲全体がジュクジュクしてきて、黄色い汁 ( 浸出液 ) が出る。
  • 皮膚がゴワゴワ厚く硬くなる→赤みをともなう盛り上がりができたり、全体的に腫れてくる→ジュクジュクして黄色い汁が出る。

他にも、急に猛烈に痒くなったかと思うといきなり腫れてくることもあった。

顔にはブツブツができないのは幸いだけど、酷い時は赤く腫れたり表皮が剥けてテロテロして、やっぱり汁が滲む。頭皮は、フケが大量に出る、腫れる、ジュクジュクしてくる、汁が出る、の順に悪くなっていく。つまり汁が出たら最終形態である。

また陰部の皮膚も赤く腫れて、これもかゆくってかゆくって、たまらず掻いて排尿の度に猛烈に染みた。

 

とにかくかゆい

カサカサからジュクジュクまでとにかくかゆいのだが、当然掻くと余計皮膚がボコボコになって腫れも悪化する。だけど到底我慢できず、みんな掻くな掻くなと言うけれど、叩いてごまかしてどうにもならない時は、もうとにかくかゆみが治まるまで渾身の力で掻いた。

知り合いのアトピー人が、「皮膚の中がかゆい」と言ってるのを聞いて、まさにそれだと思った。掻いても掻いてもかゆいところに手が届かないから、全力で掻いて皮膚を掻き破ってしまう。特に寝ている時は容赦がなくて、基本朝起きたら傷だらけ。すごい時は、鎖骨の付け根あたりの肉が直径2センチくらいえぐれていて驚いた。

ちなみに、シーツには毎朝血の跡が転々としていて、これをつまみ洗いしてくれていたお母さん。自分で洗濯するようになって「なんて手間だ!」と頭を抱えた。さらに状態が悪い場合、黄色いシミまで加わってため息が出る。

一人暮らしを始めた時、熱湯に近いシャワーをかけるのがかゆみに効くことを発見。お湯と水の蛇口両方捻って温度を調節するタイプがベスト。まずはお湯と水の蛇口両方を捻り、かゆいところにシャワーを当てながら、徐々に水の蛇口を締めていく。そうしてお湯がアッツアツになり、皮膚の奥がジリジリと熱されるのが最高に気持ちいい。最終的に水の蛇口はほぼ全締め状態になる。いきなりお湯だけ全開だとアツッってなるけれど、徐々に温度を上げていくといい塩梅。しばらくジリジリ熱して、皮膚の奥がチュンチュンに熱くなって「もう無理!」という瞬間が、もうほんとエクスタシー。

 

<副産物> 

身体的にしんどい

「肌の問題だけで具合が悪いのとは違うんだから…」と言われることがある。それはそうなのだが、全身の肌が腫れて熱を持って、さらに汁が出るような状態だと、見た目の問題ではなく本当に外に出るのもしんどかった。

腫れのほてりやかゆみ、痛みで勉強や仕事に集中することができない。洋服の擦れですらかゆみや痛みを誘発して、パンツすら履いていられない時もある。

外気や空調で肌はみるみる乾いていくし、突然ダラリとほの暖かい液体が額から垂れてきて「血!?」と思ったらドロドロの黄色い汁だったり。

そんな状態だと体力気力の消耗が激しくて、許されるなら1日布団に潜り込んで、ただひたすらに酷い時期を耐え忍びたかった。

 

黒くなる

アトピーの人は黒ずんだような肌をしていることが多い。皮膚の硬化や腫れ、ジュクジュクを繰り返しているうちに肌が黒くなっていく。色素沈着と言うらしく、刺激を受けた肌が防御反応でメラニンを生成するためだとか。

さらには保湿剤のワセリンは油だから、ちょっと日に当たるとすぐ日焼けする。小学校の時、転校して来た男の子に「外人なの?」と聞かれた。なぜ?と聞くと「肌の色が…」と言う。東南アジア系だと思われたらしい。

私は顔や手足はワセリン日焼けの感が強くて、インドア派にも関わらず良く「健康的だね」と言われる。肩から体幹はまだらに色素沈着があり、パンツのゴムが当たる辺りは特に茶色い。シワを伸ばすとシワの間だけ見事に白かったりする。

 

年齢とともに、アトピーの症状・出方などは少しずつ変化した。酷くなった時、だいたいはっきりした原因が分からないのが困りものだ。

特に小学校中学年から高学年にかけて、症状は治まったり酷くなったりしながら次第に悪化していった。

毛抜き

同居の祖母によく頼まれていたのが、逆まつ毛抜き。

普通まつ毛が生えている位置よりずっと内側(眼球側)にまつ毛が生えて、目を突いて痛いらしい。1〜2ヶ月ぐらいの間隔だったか、べろっと瞼をめくった裏側の毎回違う場所に、多い時は同時に3本くらい生えていた。祖母の目では見えないらしく、頼まれては毛抜きでつまんで抜いていた。

毛を抜く時、ポリッと良い手応えで半透明の塊が取れる(抜いた毛の毛根についてくる)のが楽しくて、はて、自分の手足の毛でも取れないかしらと思い至った。そしたら、取れる取れる。

 

いま書くに当たって、この半透明の物体は結局何なんだと調べたら、どうも毛根鞘(もうこんしょう)というもののようだ(たぶん)。

毛根鞘とは、体毛と皮膚を固定するために毛根を包んでいる組織だそうだ。昔調べても情報が出てこなくて(検索能力の問題?)、結局毛根なのかと思っていたが、それにしては大きかったり長かったりプルプルしていたり、色んな形がありすぎて腑に落ちていなかった。

 

この毛根鞘、アトピーの酷い箇所からは特によく取れる。

炎症を起こしたりジュクジュクめの肌からは、ほとんど抵抗なくヌッと抜けて(このヌッがまた楽しい)、滑らかで柔らかめの塊がついてくることが多い。ぶわぶわに厚くなった肌からはボリッと手応え良く、大きいのやいびつな形のものが取れた。

この塊が毛穴から抜ける時の見た目と手応えがたまらなくて、ひだまりの中で一心不乱に毛を抜くようになった。

アトピーの酷いところから良く取れるため、「悪いものが出てるんじゃないか」という気持ちにもなる。当然そんなことはないし、そう信じていたわけでもないが、おまじないのようなものというか。

痒い肌から毛を抜くと良い刺激にもなって、「もう良い加減やめよう」と思うがなかなか止められない。あと100本毛を抜いたら、あと良い塊が10取れたら…などと思いながらも時間さえあれば毛をむしり、そうだ、夜は電気スタンドだ!と閃いて夜も毛をむしり、手の届く限り体や顔のうぶ毛をむしって、とうとう眉毛まで無くなってしまった。

 

どうも世間には抜毛症と言われるものがあるらしく、ストレスによるものが多いみたいだが、中にはこの毛根鞘が抜けるのが楽しくて頭髪を抜いてしまう人がいるらしい。

さすがに私は頭髪まではいかなかったが、そういうネットの情報を見て、自分も抜毛症だったんだろうな…と思った。他にもやっている人がいると分かって、なんだか嬉しいような安心するような気持ちになった。

 

いまはそこまで時間は割かないが、それでも体毛を抜くのは日課で、家に帰って来てまず毛を抜くのが私の "一息つく時間" だ。うぶ毛を抜く分にはムダ毛処理も兼ねていいと思う。アトピーが酷いところは楽しく処理がはかどるから、1日ごとに局所的に酷いところが移動して、ムダ毛処理が全部済んだ頃に酷いところが無くなればいいのにな、なんて考えている。

 

食について

両親は、とにかくアトピーの原因と考えられるものを排除しようと頑張ってくれた。

 

その最たるものが食事。野菜は無農薬、魚は天然物、肉は国産で出所が確かなもの、卵は有精卵、加工食品や調味料は添加物・化学調味料なしのもの。

当然値が張っていたわけで、いまから考えると贅沢な食生活だったわけだが、当時は特に市販のお菓子ジュースやインスタントラーメンもダメ!な生活が不満だった。

 

 友達の誕生日パーティーなんかに行くと、宅配ピザからポテトチップス、真っ赤なウィンナーやらコカコーラにファンタと、見目も煌びやかでカツーンとくる化学調味料や大量の砂糖の味がタマらなかった。そして家に帰って「買って買って!」を連呼するのだが、一蹴されるのが常。

 

我が家では、食材から調味料お菓子まで、基本的にグリーンコープという西日本で展開している生協団体で注文していた。産直、添加物不使用、遺伝子組み換え作物もできるだけ使わないというような、安全な食品の販売や商品開発を行っているらしい。

 

グリーンコープではウィンナーも着色料・発色剤なしで、これは肉の味わい豊富でむしろ美味しかったが、お弁当に持っていくと友達から「色が悪い」と謗りを受けた。プリンやグミ、クッキーなんかのお菓子は、当時はその自然な味わいに市販品と比べて物足りなさを感じていた(ドカッとした甘さに飽きた今は美味しいと思う)。マヨネーズやケチャップは酸化しないように瓶入りで、よその家のチューブ入りに無駄に憧れを抱いたりもした。

グリーンコープでの注文では無かったが米はずっと胚芽米で、これがまたお弁当で友達のご飯が白くツヤツヤしているのになんでこんなに茶色いの?という、周りと違うことに敏感な子供時代には辛いものだった。今調べると白米より高いみたいで、もっと胸を張っても良かったのかもしれない。

 

魚や肉、食材の買い足しにスーパーも使っていて、母と一緒に行った時、「これ買って!」と言うと必ず裏面の原材料チェックが入る。

そして、「これはこういう害こっちはこう…」と添加物の説明が始まる。またそれか…と言葉が出ない私を見て、母は「あんまり色々言っても覚えられんばいね」と解釈し、「原材料の少なかとば選びなさい。カタカナがいっぱい書いてあるとはダメ」と締めくくる。

学習した私はそのうちお菓子なんかの裏面を見て「これならどうだ、少なかろう」とアタックするようになったが、優秀なものでも大概一つや二つ「あー、これが無ければねえ」というのが入っていて、ほとんどが母の検閲を突破できなかった。

 

仕方ないからお小遣いで隠れて食べたり、婆ちゃんの買い物について行って「こないだお母さんが買ってくれたやつだから大丈夫」とそそのかして食べたりしていたが、やはり教育の力は絶大で、どこかで "体に悪いもの"という意識は拭えなかった。

 

そして小さい頃にインプットされたことは聞いていないようでよく覚えていて、一人暮らしを初めてからも、買う前に必ず原材料はチェックしている(その上で「ちょっとくらいいいか」はしばしばあるけれど)。

その上いまとなっては、「いま住んでる場所でもグリーンコープの注文ができたらいいのに…」と思うまでに成長(?)した。何より、親がかけていたお金と手間と心遣いが、ようやく理解できるようになったのだ。

一方、同じく厳しい食品統制を受けていた兄は全く逆に振れて、一人暮らしとともに " 全く何も気にしないで何でも食べられる生活 " を謳歌している。

 

進行

じわじわと症状が悪化していき、小学3年生頃には常時痛々しい外見になってしまった。

全身カサカサでブワブワに厚くなった皮膚が赤みを持ち、皮は落ちるし時に黄色い汁も出る。顔も爛れたように赤くなり、道すがら近所の人から「かわいそうかわいそう」を浴びるように。

 

肌のケバ立ち(カサカサ)が酷かった為、どういう経緯で始めたのか忘れたが、朝起きたらまずは新しめのパリッとした軍手で全身のカサカサをこさぎ落としていた。

いま思うと絶対肌に良くない。もしかしてそのせいで酷くなったんじゃなかろうか…。親もそう言ってやめるよう促したが、この表面に浮いたカサカサがどうにも気持ち悪くてムズムズして、やらずにおれなかった。落ちた皮を集めて小山にして、達成感すら感じていた(もちろんちゃんと捨ててました)。

 

この年の夏、前の家から100mも離れていないところに引っ越した。

風呂場には、前の家には無かったシャワーがあったがなぜか水しか出ず(直そうともしなかった)、こさいだあとは大バケツにお湯を溜めてもらって、たらいの中でお湯浴びをした。そして保湿剤のワセリンと薬(ステロイド)をつける。

乾燥が酷く、朝晩薬をつけないとパリパリでたまらなかった。朝は母、母が夜勤でいないときは祖母、夜の風呂後は父が薬つけをしてくれた。

 

顔も掻いてめくれて汁っぽいやら乾燥やらでひっつってはいたものの、割と元気に過ごしていたと思う。

学校では、算数が苦手で国語と図工が得意だった。男女関わらず良く遊んでいた。

兄とも仲が良く、家に帰るとテーブルの上で息だけでピンポン玉を打ち(?)合うフーフー卓球や、欄間をゴールにしたボール投げ(土壁を破壊してよく怒られた)など、自分たちで遊びを考え出して楽しんでいた。

父の影響で漫画が好きで、当時は幽遊白書SLAM DUNKダイの大冒険など名作が目白押しだったから、夢中になって読んでいた。ジョジョも単行本が出るたび父が買い揃えていたが、幼い私にはあの絵が気持ち悪く思えて手をつけなかった。高学年くらいになってから暇さのあまりに読み出したら面白くて(絵もうまい)、しまったと思った。

 

アトピーの方に話を戻します。

夜の風呂が大変で、これはもうカサカサをこすり落とす作業。

このくらいから風呂は一人で入っていて、お湯に浸かってふやけた肌を手のひらで擦ると、消しゴムのカスみたいなのがボロボロとめどなく出てくる。これをあらかた擦り落とすと肌がピカピカになり、薬の浸透も良くなるのだ。擦り落とさずに皮膚がケバだったままだと、薬が浸透しないし痒みも出た。

(ただ長く続いたこの擦り癖のせいで、ずいぶん後になってから酷いことになった…)

全身擦り落とすのに1時間半、2時間…と、どんどん風呂の時間が延びていった。

 

それで夜布団に入ると温まってなのか何なのか必ず全身痒くなる。毎晩のように父に背中を掻いてもらって、「まだや」と聞く父を「もうちょっともうちょっと」と拘束した。

私が寝てようやく父は自分の部屋で、本棚いっぱいに集めた本を読みだす。

この時父が40歳。毎日働いて、帰ってきてからやりたいこともたくさんあったろうに、と思えるようになるまで、この時から10年以上かかった。

 

化け物の気分

小学2年生の時だったと思う。全身のカサカサと関節部の発疹はあったが、いま写真で見てもそう分からないくらい。

 

 待ちに待った夏休みが来て、母親に兄と二人プールへ連れて行ってもらった。

ピカピカに晴れた日だった。兄とはしゃぎにはしゃいで三時間。付き合いきれずに休憩所で読書していた母親が、さすがにアトピーへの日焼けダメージを心配してやってきて、ブーブー言う我々を一喝して帰途についた。

 夏休みは最高の滑り出しだった。帰りの車も兄と大ハシャギだったのを覚えている。ペーパードライバー講習を終えたばかりの母がかっ飛ばす赤いミニカの中で、何がそんなに楽しかったのか、飽きもせずにキャッキャと笑いあっていた。

 

翌朝、朝起きると目が開かない。違和感だらけの顔を触って悲鳴を上げた。母親が一階からすっ飛んできた。

 赤く爛れた顔全体に、破れた皮膚から吹き出した膿色の塊がもりもり盛り上がって、流れ出た膿汁が固まって目を塞いでいた。

ギャーギャー泣きわめいているうちに少しずつまぶたが開いてきて、あんぐりしている母親の顔が見えた。ついで父親と兄、祖母もやってきて、息を呑んで私の顔を見ていた。

 

お湯で湿らせたタオルでまぶたに張り付いた膿を溶かしてもらって、ようやく目が開くように。膿色のもりもりはお湯で流してもどうにもならなかった。

意を決して鏡を見たら、顔面お岩さんみたいなそのありさまに心底びっくりした。人間の顔ってこんなになるんだ、という悲しみを超えた驚き。そのあとに「ずっとこのままだったらどうしよう」と襲い来る恐怖感。

母親にビービー泣きついたら、「あがん長い時間泳ぐけんたい」と怒られた。

 

良くなるまで決して外に出るまいと誓い、近所の友達がいくら誘いに来ても頑として顔を出さなかった。

鏡はもちろん、ガラス張りの棚や消えたテレビなど、姿が映るものの前には絶対に近寄らない。そして知らず知らずのうちに暗がりへ暗がりへ。夜、電気もつけずに洗面所やトイレにいて、誰もいないと思ってやってきた母親が電気を点けた瞬間私の姿が現れ、しょっちゅう悲鳴を上げていた。

 

そんなある日、母がまじまじと私の顔を見て「…あんた化け物ごたんね」。

私は心底同意して頷いた。そして二人で大笑いした。本当に、あまりにも見事に化け物らしかったのだ。

 「代われるものなら代わってやりたい」と心から胸を痛めていた(であろう)母だったが、そうウェットになることは無かった。父も同じで、いつもどこか引いてものを見るゆとりがあったように思う。そのおかげか、私も悲壮感に沈みきるようなことはなく、どこか呑気にやっていけた。

それにしても、当時あの形相を「写真に撮っとかん?」と言った母は相当な神経の太さだと思う。当然そんな気分になれず断ったが、今にして思えば残しておけば良かった。

 

兄も私の面がまえにすぐ慣れて、結局一夏、光の入らない奥の部屋の暗がりで、ブロックや怪獣人形を使って一緒に遊んだ。

 

「夏休みが終わっても顔が治らんかったら学校には行かん」と言い張って親を困らせたが、膿色のかさぶたは少しずつ小さくなっていき、見計らったかのように8月の終わりの終わりに目元に残った最後の一つが無くなった。

せめてもう少し早ければ遊びに行けたし、もう少し遅ければ夏休みが延びたのに。

 

始まり

時は1988年。

バブル景気の中、青函トンネルや東京ドームが竣工した年らしい。ドラクエIIIが発売され、フラワー ロック(サングラスかけた踊る花)がヒットし、オバタリアンが流行語というネットの情報を見ていると、よっぽど昔に思われる(よっぽど昔だ)。

 

私は当時4歳だったから記憶が断片的にしかないが、そういえばブラウン管の中でしょっちゅう光GENJIが走り回っていたような。ウルトラマンに夢中になっていたと思ったが、放送時期を調べたらそれは1990年のことのよう(それも再放送だった)。 

我が家のテレビはダイヤル式のブラウン管で、羽みたいなアンテナがついていた。電話は黒のジ ーコロ、トイレはボットン便所で、いつも自分自身が落っこちないか怯えながら用を足していた。当時のよその家に比べても、よほど昭和感あふれる環境だったと思う。

 

カーテンにぐるぐるッとくるまって、ぐるぐるッと出てくる遊びにハマっていた。

幼稚園で他の子がやっているのを真似して、家に帰ってからも三つ上の兄と飽きもせずに四六時中やっていた。そうしているうちに、腕の関節や首にポツポツと発疹ができはじめた。

カーテン遊びが禁止になって大人しくしてからも発疹は治ることなく、次第に体全体に広がって、病院で"アトピー性皮膚炎"と診断された。

 

カーテン遊びが原因だったのかは分からない。

ハウスダスト、ダニ、卵小麦などのアレルゲン食品から、食品添加物、衣料や洗剤の化学物質など…いろんな可能性が挙げられたが、結局はっきり何がどうとも分からず、また人それぞれ影響を受けるものは違うらしい。

 

肌が乾燥するようになって、お風呂上りに全身にワセリンを塗るのが日課になった。

幼稚園のプールの後にも、母親が来てワセリンを塗りたくられた。母は看護師(当時はまだ看護婦と言っていた)で、休みの日だったのか、仕事を抜けてわざわざ来てくれていたのか。母の務める総合病院は、家からも幼稚園からも近い場所にあった。

同じようにお母さんが来て、全身に白い粉をはたかれている男の子がいた。その子もアトピーらしかったが、見た目にはさほど分からなかった。

 

当時、我が家では父も母も同居の祖母もタバコを吸っていた。

私のアトピー副流煙が良くないらしいということで(近くで吸わなきゃ済むのだが)、禁煙活動が始まった。母と祖母はすんなりやめた。父は『私はコレで、会社を辞めました』で同じみ禁煙パイポをくわえて頑張っていたが、結局今に至るまでタバコを吸っている。

当人も当人だが、家族にとっても大変なアトピーとの付き合いが始まった。 

 

時代を感じます。